『白露日記』
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ペルー銀山事件は国の恥辱とみなされ、その後関係者は口を閉ざしたが、山口慎は明治23年9月の帰国後すぐ自らの秘露(ぺるー)日記を清書し、この顛末を 『白露日記』 と題して残した。出発前の明治22年11月から始まるこの端正な墨蹟の日記から当時の船旅や鉱山の現場状況がよくわかる。30余りの短歌と12編の漢詩も詠みこんでおり、率直な心境と矜持を示している。号は孤雲。 日記の冒頭、自らの家業は順調であるが、日本の状況を思えば海外に出て行くべきであり国威発揚の端緒になればとの思いを記し、 「世の中よ ためしぞ事の始めなれ 成るも成らぬも亦くにのため」 と詠んだ。銀山が廃坑であると判明し、被害を最小限に撤退するための作戦として先に日本へ帰国するという是清をカヤオ港で見送ったときの漢詩は特に痛切で、後に自ら掛軸にして残した。帰国して日秘鉱業会社の解散を知り、「堂々タル日本ノ紳士紳商トイワルル人ノ不徳無情ナルニ慨歎セリ」 と記した。何事にも正直で前向きな武士道精神の持ち主であった慎だが、日記の最後には 「朝日影さす甲斐もなく消へうせて うらみを残す白露の国」 と、不在中に自らの家業が倒産したこともあり憤りを込めている。 『白露日記』の原本は次男・固が保管、その死後1957年中央公論10月号に村山兵衛が「海外雄飛の夢を弔う ― 明治中期の海外事業における資本家と労働者の人間的スケッチ」として紹介した。1962年には五男・三村起一の 『身辺二話』 にも収められた。その後長らく顧みられることはなかったが、2014年になり、三井金属鉱業株式会社ペルー支社長を務めた五味篤が 『銀嶺のアンデス 高橋是清のペルー銀山投資の足跡』 をスペイン語と日本語の併記で出版した。この大著は膨大な資料を掘り起こし綿密な調査によってこの開発計画の全貌を明らかにしたもので、この出版により 『白露日記』 は日の目を見たと言える。
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