多くの国策の立案者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 06:00 UTC 版)
開戦直前の軍務課高級課員時代の石井は、陸軍側の担当者として多くの国策の起案をしている。その当時のことを、石井は後年以下のように振り返っている。 わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。 そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。 1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で決定された帝国国策遂行要領については、以下のように振り返っている。 天皇陛下が、第一項に戦争が書いてある、第二項に外交が書いてあるって、ご機嫌が悪いわけね。ところがそれを、第一項に戦争を書いたのは、わしですよ。それだからわしはね、大東亜戦争ていえば、すぐさまあの「四方の海」ね、あれを思い出します。今でもそうです。大東亜戦争と言っても、負け戦だったけど、それよりも先に、あの「四方の海」を思い出します。そういうもんです。 だからわしはあの政策に、ずいぶん責任がありますよ。 また、石井が開戦を決意した理由を次のように述べている。 資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。どうしようかと・・・。夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。そして、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。
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