宋謙
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孫策が劉繇と戦ったとき、宋謙は韓当・黄蓋ら十二将とともにお出ましに付き従い、ばったりと太史慈に出くわした。太史慈がとっさに孫策に突きかかる一方、孫策は太史慈の馬を刺し、互いに揉み合っているところを宋謙らが駆け寄ったので、二人とも戦いを切り上げて解散した《太史慈伝》。 合肥の戦役では、張遼が奇襲をかけてきたので、諸将は備えを固める暇もなく陳武が討死し、宋謙と徐盛は敗走した。そのとき後方に控えていた潘璋が彼らの兵士二人を斬ったので、ようやく持ち直して戦うことができた《潘璋伝》。 黄武元年(二二二)、蜀の劉備が大軍を率いて西方の境界線を越えてくると、孫権は陸遜を大都督・仮節とし、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人を監督させて防がせた《陸遜伝》。陸遜は宋謙らを率いて蜀側の五つの陣営を攻撃、全てを打ち破って敵将を斬った《呉主伝》。劉備が白帝城に引き揚げたのち、宋謙は徐盛・潘璋らとともに「必ず劉備を捕らえることができますから、どうか再攻撃させてください」と孫権に上表したが、孫権は許可しなかった《陸遜伝》。 合肥の戦役でも夷陵の戦役でも、宋謙の名は徐盛・潘璋とともに連ねられている。同じ部署に所属していたのだろうか。 【参照】韓当 / 黄蓋 / 朱然 / 徐盛 / 鮮于丹 / 孫桓 / 孫権 / 孫策 / 太史慈 / 張遼 / 陳武 / 潘璋 / 陸遜 / 劉備 / 劉繇 / 合肥侯国 / 蜀 / 白帝県 / 仮節 / 大都督 |
宋謙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 13:05 UTC 版)
宋 謙(そう けん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての武将。
事跡
正史『三国志』によると、興平2年(195年)に孫策配下として劉繇攻めに従った。劉繇軍の太史慈が孫策に一騎討ちを挑んだ際、孫策につき従っていた13人の騎兵の一人として、韓当や黄蓋と共にその名を記されている。
建安20年(215年)、孫権が合肥城を攻めた時は一軍を率いて参加したが、曹操軍の張遼が奇襲してきたため、宋謙の兵は徐盛の軍と共に逃げ出してしまった。しかし潘璋が逃げ出した兵2人を斬ったため、彼らの軍は全軍逃走に至らずに踏み留まることができた。
黄武元年(222年)、蜀漢が呉に侵攻してきた時は、陸遜の指揮下で朱然・潘璋・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓と共に5万の軍勢で出陣し、これを撃退した。劉備が白帝城に撤退すると、徐盛や潘璋と共に再攻撃の許可を孫権に上奏したが、陸遜の反対もあり許可されなかった。
宋謙に関する部分は上記の部分のみで、黄蓋ら武官として功績を挙げた者たちが載る「呉書」第十にも立伝されていない。他の人物の伝に付伝されたり、裴松之の注釈にも詳細が記述されていないため、字や生没年、官位などが不明である。
物語中の宋謙
赤壁戦直後に孫権が合肥城を攻めた際、賈華とともに孫権の護衛として出陣する。本陣に攻め寄せてきた楽進を迎撃し、楽進が撤退すると追撃するが、李典の放った矢が心臓に命中し、戦死することになっている。孫権は宋謙の死を嘆き悲しみ、太史慈を仇打ちのために出陣させている。
宋謙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)
「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「宋謙」の解説
呉の武将。合肥の戦いで呉の先鋒として出陣し、孫権に襲いかかろうとした李典と一騎討ちを行うが、その最中に楽進の放った矢に当たって討ち死にした。
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