鮮于丹とは? わかりやすく解説

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鮮于丹Xianyu Dan

センウタン

(?~?)

孫権の将。

建安十九年(二一四)、劉備益州平定したので、孫権荊州郡の分割求めたが、劉備言い逃れをするばかりで割譲応じなかった。そこで孫権は、鮮于丹を徐忠・孫規らとともに呂蒙に付け呂蒙には軍勢万人監督させて長沙零陵桂陽の三郡を奪取させた《呉主伝》。

黄武元年二二二)、蜀の劉備大軍率いて西方境界線越えてくると、孫権陸遜大都督・仮節とし、朱然潘璋宋謙韓当徐盛・鮮于丹・孫桓五万人を監督させて防がせた《陸遜伝》。

もともと晋宗というのは戯口の守将であったのだが、魏に寝返って蘄春太守となり、安楽襲って自分出した人質取り戻そう企てていた。孫権はそれに腹を立て、二年六月夏の盛り賀斉麋芳・劉邵・鮮于丹らを監督させ、その不意を突いて胡綜とともに蘄春襲撃、晋宗を生け捕りにした《呉主・賀斉胡綜伝》。

同五年に孫権石陽攻撃したとき、孫奐はその地の主(太守であったので、配下将軍鮮于丹の軍勢五千人に命じてあらかじめ淮水(?)への道を遮断させておき、自身では呉碩・張梁五千人を先鋒として高城陥落させ、敵将三人捕らえた宗室伝》。

参照賀斉 / 韓当 / 胡綜 / 呉碩 / 朱然 / 徐忠 / 晋宗 / 宋謙 / 孫奐 / 孫桓 / 孫規 / 孫権 / 張梁 / 潘璋 / 麋芳 / 陸遜 / 劉邵 / 劉備 / 呂蒙 / 安楽 / 益州 / 魏 / 戯口 / 蘄春郡 / 荊州 / 桂陽郡 / 呉 / 高城県 / 蜀 / 石陽県 / 長沙郡 / 零陵郡 / 淮水 / 仮節 / 太守 / 大都督 /


鮮于丹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 19:12 UTC 版)

鮮于 丹(せんう たん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。孫権に仕えた。




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