孫権軍の重鎮へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 孫権軍の重鎮への意味・解説 

孫権軍の重鎮へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:54 UTC 版)

呂蒙」の記事における「孫権軍の重鎮へ」の解説

建安16年211年)、曹操江北に兵を送り屯田始めさせ、廬江の謝奇を蘄春の典農に命じて、皖において屯田させようとした。その屯田兵孫権領土でしばしば略奪働いていたという。呂蒙は彼らに帰順勧めたが、受け入れられなかったので、奇襲をかけたところ、魏の屯衛を撃破させた。謝奇はそれ以来侵攻をして来なくなり、その部下孫子才や宋豪などは一党引き連れて投降してきた。 建安17年212年)、曹操が来侵しようとしていると聞き孫権は塢を作ろうとしたが、部下無意味だ挙って反対した。呂蒙は、上陸欠点指摘した上で水陸進退の便利を引きながら築塢の長所重ねて水口挟んで巣湖水域に塢を築くことを進言した。孫権呂蒙意見支持し曹操への対策として濡須塢を築き、ここを守備した建安18年213年)、曹操40軍勢で濡須を侵攻し孫権は7軍勢敵軍迎え撃った曹操孫権長江挟んで戦い始める(濡須口の戦い)。濡須塢は防備きわめて厳重になり、優れた奇策を度々行い曹操を退げた。呂蒙献策であらかじめ築いていた濡須塢が功を奏し功績挙げた曹操廬江太守朱光送り込み、皖を本営とし屯田開始させ、さらに鄱陽不服住民にも誘いをかけ内応させようとした。呂蒙は皖の土地肥沃であり、数年もしたら軍勢増強され、手が付けられなくなると心配し今の内に滅ぼしておくよう上陳した。孫権はこれを受けて建安19年214年5月に皖への攻撃出陣した孫権諸将集め計略尋ねたところ、呂蒙甘寧を升城督に推挙し甘寧先鋒とし、呂蒙精鋭指揮執りそれに続いて攻撃するという作戦立てた。この時、攻城のために土山作り道具集めるべきだという慎重論出たが、呂蒙は敵の準備不足している内に攻めるべきとして、これを退けたという。呂蒙自ら太鼓打ち鳴らし兵卒鼓舞するなど力戦し、兵士達次々城壁乗り越えて行き戦闘は朝の内に終了した。この時、曹操援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城知らせ聞き退却した。これは建安19年214年)の閏5月のことで、太守朱光捕らえ数万人の男女捕虜とする戦果挙げたという。この功績により廬江太守任命され鹵獲した人馬、それに尋陽屯田民と官属が与えられた。 呂蒙尋陽戻ったが、1年後廬陵反乱勃発した部将達は誰も討伐できなかったが、孫権呂蒙討伐命じると、呂蒙反乱忽ちの内に鎮圧した首謀者のみを処刑しそれ以外の者は解放して一般民衆戻してやった。 劉備益州手に入れた事で、孫権荊州の諸郡(長沙桂陽零陵)を返すように催促したが、劉備は「涼州手に入れた荊州の諸郡を返します」と答えた涼州益州の遥か北であり、当時益州涼州の間であと漢中があると、劉備がこれを奪う事はその時点で不可能に近く返すつもりが無いと言った同然であった。これに怒った孫権呂蒙魯粛らを派遣して荊州攻めた建安20年215年)、魯粛1万率い益陽進み劉備軍荊州軍事総督関羽牽制した。その上で呂蒙は、呂岱・孫茂・鮮于丹・孫規らとともに長沙桂陽降伏させた。夜半呂蒙召集され諸将達は、呂蒙から計略授けられて、明日の朝に城を攻める。また、南陽の鄧玄之という人物使者として派遣して唯一抵抗姿勢見せた零陵太守郝普を、計略用いて降伏させた。その後呂蒙は三郡に孫河孫皎か)を置き、関羽魯粛対峙する益陽に軍を進めた単刀会談魯粛今回一件について劉備陣営信義がない事を叱責し関羽怒鳴りつける曹操張魯倒して手にいれた漢中劉備攻められる事、劉備益州を失う事を恐れて孫権和解申し入れてきた。孫権劉備はかくて湘水境界線として割き江夏長沙桂陽東側となり、南郡武陵零陵西側となった同年孫権は自ら軍を率いて合肥城を攻めたが、疫病にあって撤退したその時張遼追撃受けたが、寡兵呂蒙凌統らが殿となって死闘孫権守った合肥の戦い)。 建安21-22年216年-217年)、曹操は自ら26軍(10万上の軍勢)を率いて再度濡須口を攻め張遼臧覇などを先鋒として孫権攻撃し孫権工作隊が柵を築き終え前に強攻受けて後退した孫権呂蒙蔣欽全軍諸軍指揮任命し呂蒙は濡須口で以前の濡須塢(水上要塞の上強力な1万配備して曹操進撃を防がせた。曹操軍前鋒が屯陣を終えないうちに、呂蒙はこれを窺い知ると、隙に乗じて奇襲曹操大軍撃ち破る。結局曹操は濡須塢で川を下る事ができず、勝利することはできなかったため、孫権軍撃退され引き揚げた。曹操との濡須での戦いで功績挙げて呂蒙虎威将軍・左護軍昇進した周瑜亡くなると、曹操4度のように巣湖・濡須水域攻めかかってきた。曹操侵攻阻止濡須口の戦い戦勝など、呂蒙は呉の危機幾度となく救った魯粛死去すると、当初後任予定であった厳畯辞退した事もあり、呂蒙魯粛後任としてその後継いだ引き続き陸口に駐屯し魯粛兵馬1万余は全て呂蒙配下となった漢昌太守となり、劉陽漢昌州陵の地を与えられた。

※この「孫権軍の重鎮へ」の解説は、「呂蒙」の解説の一部です。
「孫権軍の重鎮へ」を含む「呂蒙」の記事については、「呂蒙」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「孫権軍の重鎮へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「孫権軍の重鎮へ」の関連用語

1
4% |||||

孫権軍の重鎮へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



孫権軍の重鎮へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの呂蒙 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS