孫権軍の重鎮へ
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建安16年(211年)、曹操は江北に兵を送り屯田を始めさせ、廬江の謝奇を蘄春の典農に命じて、皖において屯田させようとした。その屯田兵は孫権の領土でしばしば略奪を働いていたという。呂蒙は彼らに帰順を勧めたが、受け入れられなかったので、奇襲をかけたところ、魏の屯衛を撃破させた。謝奇はそれ以来侵攻をして来なくなり、その部下の孫子才や宋豪などは一党を引き連れて投降してきた。 建安17年(212年)、曹操が来侵しようとしていると聞き、孫権は塢を作ろうとしたが、部下が無意味だと挙って反対した。呂蒙は、上陸の欠点を指摘した上で、水陸の進退の便利を引きながら築塢の長所を重ねて、水口を挟んで巣湖水域に塢を築くことを進言した。孫権は呂蒙の意見を支持し、曹操への対策として濡須塢を築き、ここを守備した。 建安18年(213年)、曹操は40余万の軍勢で濡須を侵攻し、孫権は7万の軍勢で敵軍を迎え撃った。曹操と孫権が長江を挟んで戦いを始める(濡須口の戦い)。濡須塢は防備はきわめて厳重になり、優れた奇策を度々行い、曹操を退げた。呂蒙の献策であらかじめ築いていた濡須塢が功を奏し、功績を挙げた。 曹操が廬江太守の朱光を送り込み、皖を本営とし屯田を開始させ、さらに鄱陽の不服住民にも誘いをかけ内応させようとした。呂蒙は皖の土地が肥沃であり、数年もしたら軍勢も増強され、手が付けられなくなると心配し、今の内に滅ぼしておくよう上陳した。孫権はこれを受けて、建安19年(214年)5月に皖への攻撃に出陣した。孫権は諸将を集め計略を尋ねたところ、呂蒙は甘寧を升城督に推挙し、甘寧を先鋒とし、呂蒙は精鋭の指揮を執りそれに続いて攻撃するという作戦を立てた。この時、攻城のために土山を作り、道具を集めるべきだという慎重論が出たが、呂蒙は敵の準備が不足している内に攻めるべきとして、これを退けたという。呂蒙自ら太鼓を打ち鳴らし、兵卒を鼓舞するなど力戦し、兵士達は次々に城壁を乗り越えて行き、戦闘は朝の内に終了した。この時、曹操の援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した。これは建安19年(214年)の閏5月のことで、太守の朱光を捕らえ、数万人の男女を捕虜とする戦果を挙げたという。この功績により廬江太守に任命され、鹵獲した人馬、それに尋陽の屯田民と官属が与えられた。 呂蒙は尋陽に戻ったが、1年後に廬陵で反乱が勃発した。部将達は誰も討伐できなかったが、孫権が呂蒙に討伐を命じると、呂蒙は反乱を忽ちの内に鎮圧した。首謀者のみを処刑し、それ以外の者は解放して一般民衆に戻してやった。 劉備が益州を手に入れた事で、孫権は荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)を返すように催促したが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の諸郡を返します」と答えた。涼州は益州の遥か北であり、当時で益州と涼州の間であと漢中があると、劉備がこれを奪う事はその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙・魯粛らを派遣して、荊州を攻めた。 建安20年(215年)、魯粛は1万を率い益陽に進み、劉備軍の荊州の軍事総督の関羽を牽制した。その上で呂蒙は、呂岱・孫茂・鮮于丹・孫規らとともに長沙・桂陽を降伏させた。夜半に呂蒙に召集された諸将達は、呂蒙から計略を授けられて、明日の朝に城を攻める。また、南陽の鄧玄之という人物を使者として派遣して、唯一抵抗の姿勢を見せた零陵太守の郝普を、計略を用いて降伏させた。その後、呂蒙は三郡に孫河(孫皎か)を置き、関羽と魯粛が対峙する益陽に軍を進めた。単刀会談で魯粛は今回の一件について劉備陣営に信義がない事を叱責し、関羽を怒鳴りつける。曹操が張魯を倒して手にいれた漢中が劉備に攻められる事、劉備は益州を失う事を恐れて、孫権へ和解を申し入れてきた。孫権と劉備はかくて湘水を境界線として割き、江夏・長沙・桂陽は東側となり、南郡・武陵・零陵は西側となった。 同年、孫権は自ら軍を率いて合肥城を攻めたが、疫病にあって撤退した。その時に張遼の追撃を受けたが、寡兵で呂蒙・凌統らが殿となって死闘に孫権を守った(合肥の戦い)。 建安21-22年(216年-217年)、曹操は自ら26軍(10万以上の軍勢)を率いて再度濡須口を攻め、張遼・臧覇などを先鋒として孫権を攻撃し、孫権の工作隊が柵を築き終える前に、強攻を受けて後退した。孫権は呂蒙と蔣欽を全軍の諸軍指揮に任命し、呂蒙は濡須口で以前の濡須塢(水上要塞)の上に強力な弩1万を配備して、曹操の進撃を防がせた。曹操軍前鋒が屯陣を終えないうちに、呂蒙はこれを窺い知ると、隙に乗じて奇襲で曹操の大軍を撃ち破る。結局曹操は濡須塢で川を下る事ができず、勝利することはできなかったため、孫権軍に撃退され引き揚げた。曹操との濡須での戦いで功績を挙げて、呂蒙は虎威将軍・左護軍に昇進した。周瑜が亡くなると、曹操は4度のように巣湖・濡須水域を攻めかかってきた。曹操の侵攻の阻止、濡須口の戦いの戦勝など、呂蒙は呉の危機を幾度となく救った。 魯粛が死去すると、当初後任の予定であった厳畯が辞退した事もあり、呂蒙は魯粛の後任としてその後を継いだ。引き続き陸口に駐屯し、魯粛の兵馬1万余は全て呂蒙の配下となった。漢昌太守となり、劉陽・漢昌・州陵の地を与えられた。
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