孫権に仕える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 01:00 UTC 版)
孫権は会稽太守の職務に当たるようになると、自らが任地に赴かず、顧雍を郡の丞に命じて太守の仕事を代行させた。会稽で反乱が起こったとき、武装してそれをいち早く鎮圧したことから民衆・役人に慕われた。数年後、孫権の元に戻り、左司馬となった。 孫権が呉王になると、昇進を続けて大理奉丞となり、尚書令の職務を任され、陽遂郷侯に封じられた。侯に封じるという命令を受け帰宅した後も、家人にそのことを語らなかったため、家人はそのことを後から人伝いに聞き驚いたという。 同郡の張温の性格について話題になると、全琮と同程度の人物と評価する劉基の言葉を否定し、肩を並べる人物などいないと絶賛したことがある(『三国志』呉志「張温伝」)。 黄武4年(225年)、故郷から母親を呼び寄せたときは、孫権も群臣とともに出迎え、前庭で顧雍の母親に拝謁した。後に、太子だった孫登も祝賀を寄せた。
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