孫権との衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:14 UTC 版)
建安20年(215年)、荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、呂蒙の謀略により郝普は呉に降伏した。それをうけて関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った(『三国志』蜀志「先主伝」)。だが、関羽と通じた長沙郡の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、長沙郡の安成県令の呉碭と中郎将の袁龍が関羽と機略を通じ再び反乱を起こした(『三国志』呉志「呂岱伝」)。さらにこの年、曹操が自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃したことなど、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した(単刀赴会)。会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められた(『三国志』呉志「魯粛伝」)。結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった(『三国志』蜀志「先主伝」)。 建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていたが、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった(『三国志』呉志「陸遜伝」)。 あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘 に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り、孫権を怒らせた。
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