孫権に従う以前とは? わかりやすく解説

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孫権に従う以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 00:44 UTC 版)

甘寧」の記事における「孫権に従う以前」の解説

甘寧は計掾(会計報告係)に推挙され蜀郡となったが、ほどなくして官を棄てて、家に帰った(『呉書』)。 10代前半の頃から気概があって遊侠好み不良若者集めて徒党組み仲間派手に武装をさせ、彼らの頭領となった仲間たちは皆、羽飾り背負い、鈴を常に携えていたので、民衆鈴の音聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったという。派手な装い外出し陸路水路闊歩した(『呉書』)。人に出会った時は、地方長官だろうと自分達を盛大に歓待させ、そうしない者には手下使って財産を奪わせた。また自分属す地方長官領内犯罪があれば摘発制裁行ったこのような生活が20年ほど続いたが、あるときを境に乱暴を止める学問興味持ちいくつか諸子を読むようになったという。 194年興平元年)、劉焉没し、子の劉璋が跡を継いだ際、李傕漢中派遣した扈瑁に呼応した劉璋将軍である沈弥らと共に劉璋反逆した敗れ荊州逃亡した人物の中に甘寧という人名がある(蜀志劉焉伝」の注に引く『英雄記』)。 甘寧荊州劉表身を寄せて南陽住まうようになった。しかし、任用されなかったので、劉表部下江夏太守黄祖元に身を寄せたが、一般食客としての扱いであった。『呉書』では、以下のように説明されている。 甘寧手下食客800名を連れた上で身を寄せた劉表は文を重んじ武を軽視したため、甘寧任用されなかった。甘寧劉表大成せずやがて滅んでしまうだろう確信し巻き添え避けるため江東移ろうとしたという。しかし、劉表部下江夏太守黄祖軍勢夏口駐屯していたため通過できず、そのまま黄祖の下に留まった。冷遇されたまま3年ほど経過した。後に黄祖の軍の将として、対立する孫権の軍に敗れた黄祖救援し、その殿を務め追跡してきた孫権の将である凌操討ち取るなどの手柄を立てたが、甘寧待遇その後も変わらなかった。なお、凌統からはこの件で父の仇敵と終生恨まれることとなる。 都督である蘇飛甘寧重用するよう黄祖諫言したが、黄祖はかえって甘寧食客引き抜こうとし、甘寧食客らは減少していった。甘寧黄祖陣営離反することが出来ず悶々としていたが、蘇飛助けにより邾県県令推挙され黄祖の下を離れることができた。甘寧は、かつての食客新たに部下となった者達数100人を引き連れて、県に向かった。やがて甘寧はそこを出奔し孫権加入した

※この「孫権に従う以前」の解説は、「甘寧」の解説の一部です。
「孫権に従う以前」を含む「甘寧」の記事については、「甘寧」の概要を参照ください。

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