孫権による継承と拡大
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「呉 (三国)」の記事における「孫権による継承と拡大」の解説
後を継いだのが、弟の孫権である。孫権は孫策から「兵を率いて戦に勝ち、天下を争うのは俺の方が上だが、人材を良く使って江東を守るのはお前の方が上だ」と評されていた。その言葉通り、孫権は巧みな人心掌握術で配下の者たちの心をつかみ、急激な膨張の後の孫策の死で分裂しかねなかった(実際に廬江太守の李術の自立や一族の孫輔・孫暠の謀叛などの事件が起こっている)孫呉勢力をよく治め、孫権の支配はひとまず安定した。 しかし、山間部の非漢民族である山越には、長く悩まされることになる。また、呉建国以前から居住していた漢民族は宗部・宗伍などと呼ばれ、呉は彼らの抵抗も排除しなければならなかった。宗部の中には山越と合流して抵抗を続けるものもいたので、この時期に山越と呼ばれた勢力を純粋な非漢民族と見なすことは出来ない。孫権政権時代に諸葛恪や陸遜や賀斉らが山越討伐で多大な功績を挙げている。208年、孫権は父の仇である黄祖を討伐し、遂に討ち取った。 その頃、北の曹操は官渡の戦いの勝利により旧袁紹領をすべて併呑し、華北をほぼ統一していた。更に中国統一を目指し、208年に軍を南下させてきた。荊州の劉表はすでに病死しており、その後を継いだ劉琮は曹操に対してすぐに降伏した。劉琮の降伏を受けた曹操は、劉表の元に身を寄せていた劉備を追い散らし、江東へと侵攻してきた。これに対して孫権は劉備と同盟を結び、周瑜・程普を大都督として赤壁で曹操軍と激突し、黄蓋の火攻めにより、これに勝利した(赤壁の戦い)。敗北した曹操は北に引き上げて、以後は華北の経営を中心に進めていき、長江以南での孫呉勢力の覇権が確立された。 更に孫権は曹操軍がいなくなった荊州をも領有しようと軍を出すが、荊州は劉表の長男の劉琦を立てて劉備が占拠していた。赤壁で主に戦ったのは孫呉であり、より多くの戦利品を得るべきと考えた孫権は、劉備に対して抗議するが、劉備はのらりくらりとこの追及をかわし、結局孫権は荊州北部の江陵のみを得ただけとなった。以後、このことは両者の間での懸案となるが、曹操との敵対状態が続いている中で劉備とも事を構えるのは無謀であると考えた孫権は、妹の孫夫人を劉備に嫁がせて友好関係を固めて、魯粛の提案に従い、荊州の数郡を劉備に貸し与えた。 その後、孫権は西の蜀を領有することを考えるが、準備中に総大将の周瑜が病死して計画は頓挫し、その隙に先を越されて蜀は劉備に占拠された。210年、孫権は歩騭を交州刺史に任命して交州に派遣し、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。212年にはそれまでの呉から建業へと拠点を移し、備えとして石頭城を築いた。この年からは連年、曹操との間に戦いが起こるが、双方共に戦果を得られなかった。 この頃、曹操は長江周辺を孫権に奪われるのを恐れて、長江周辺の住民を北方に移住させようとした。だが、強制移住を嫌がった長江周辺の十数万戸の住民が、長江を渡って江東(呉)に移住した。曹操は朱光を廬江太守として派遣し、盛んに開墾させ、不服住民に誘いをかけて魏に内応させようとした。214年、孫権は呂蒙・甘寧を率いて曹操領の皖城を降し、廬江太守の朱光を捕らえ、数万人の男女を捕らえた。 劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。そこで業を煮やした孫権は、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。だが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、同盟友好関係が回復した。 217年、荊州の領有問題が長引いたことにより、劉備に対する不信感が増大した孫権は曹操と和睦して称臣し、荊州を守っていた関羽に対して呂蒙を配置し、対立の姿勢を打ち出した。219年、西の漢中では劉備が自ら曹操領に侵攻しており、関羽は援護のために曹操軍の荊州に於ける根拠地の樊城を攻めていた。これを好機と見た呂蒙は、関羽を油断させるために年若い陸遜を起用し、関羽が北にかかりきりになっている間に荊州を攻め落とし、関羽を捕らえて処刑した。これにより孫権は荊州の南部をすべて領有し、後の魏・呉・蜀の三者鼎立の基が定まった。
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