曹操との敵対
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袁紹・曹操と袁術・公孫瓚が争うようになると、陶謙は公孫瓚に呼応して発干に出陣し、袁紹を圧迫しようとしたが、曹操に打ち破られた(魏志「武帝紀」)。 初平4年(193年)、下邳郡の闕宣(中国語版)が勢力を振るうようになると、陶謙は闕宣と同盟して泰山郡の費県・華県において略奪を働いた。しかしやがて仲違いが起こったため、闕宣を殺害しその軍勢を吸収した。また、同時期に曹操の父の曹嵩が、陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。一説には陶謙が殺害したともいわれ、陶謙は兗州を治めていた曹操の仇敵となった。 同年秋、陶謙は曹操の侵攻により領内の十数城を奪われ、彭城での大戦や曹仁率いる別働隊と戦った傅陽戦を始め、取慮・睢陵・夏丘の各地で敗退した。陶謙は郯の地でようやく侵攻を押し留めたという。一方の曹操は兵糧を切らしたため撤退した。この一連の軍事行動の中で、曹操は各地で男女合わせ数十万人規模の住民を殺戮し、さらに犬や鶏まで残らず殺したため、泗水の流れが堰き止められるほどであったという。これによって、中央の戦乱からの避難民で豊かとなっていた徐州は、壊滅的な打撃を受けた。また、この頃陶謙の配下であった笮融が徐州の経済的中心である下邳・広陵・彭城をもって半ば自立をしたため、陶謙軍が苦境に立たされたとする見方もある。 この戦いでは、公孫瓚軍の田楷・劉備が陶謙側の援軍に来ていた。陶謙は劉備を引き留め、豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した。 興平元年(194年)、徐州に曹操が再侵攻した。五城が陥落させられ、さらに琅邪を越え東海まで攻め込まれた。郯の東に曹豹・劉備を駐屯させていたが、曹操は帰還途中に郯を通過した時、両者を撃破した。曹操は通過した地域で多数の者を虐殺したという。陶謙は、琅邪・東海の諸県を曹操が蹂躙していることに怖気付き、故郷の丹陽へ逃げ帰ろうとしたが、曹操の本拠地である兗州で、張邈・張超兄弟と陳宮らが呂布を引き入れ反乱を起こしたため、曹操軍が撤退することになり、危機を脱した。 しかし陶謙は病で重篤に陥り、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。享年63。 二人の子は仕官しなかった。
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