曹操との敵対とは? わかりやすく解説

曹操との敵対

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 17:47 UTC 版)

陶謙」の記事における「曹操との敵対」の解説

袁紹曹操袁術公孫瓚が争うようになると、陶謙公孫瓚呼応して発干出陣し袁紹圧迫しようとしたが、曹操打ち破られた(魏志武帝紀」)。 初平4年193年)、下邳郡の闕宣(中国語版)が勢力振るううになると、陶謙は闕宣と同盟して泰山郡費県華県において略奪働いた。しかしやがて仲違い起こったため、闕宣を殺害しその軍勢吸収したまた、同時期に曹操の父の曹嵩が、陶謙勢力圏内で殺害されるという事件が起きた一説には陶謙殺害したともいわれ、陶謙兗州治めていた曹操仇敵となった同年秋、陶謙曹操侵攻により領内十数城を奪われ彭城での大戦曹仁率い別働隊戦った傅陽戦を始め取慮睢陵夏丘各地敗退した陶謙は郯の地でようやく侵攻押し留めたという。一方曹操兵糧切らしたため撤退した。この一連の軍事行動の中で、曹操各地男女合わせ数十万人規模住民殺戮し、さらにまで残らず殺したため、泗水流れ堰き止められるほどであったという。これによって、中央の戦乱からの避難民で豊かとなっていた徐州は、壊滅的な打撃受けたまた、この頃陶謙配下であった笮融徐州経済的中心である下邳広陵彭城をもって半ば自立したため陶謙軍が苦境に立たされたとする見方もある。 この戦いでは、公孫瓚軍の田楷劉備陶謙側の援軍来ていた。陶謙劉備引き留め豫州刺史推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した興平元年194年)、徐州曹操が再侵攻した五城陥落させられ、さらに琅邪越え東海まで攻め込まれた。郯の東に曹豹劉備駐屯させていたが、曹操帰還途中に郯を通過した時、両者撃破した曹操通過した地域多数の者を虐殺したという。陶謙は、琅邪東海諸県曹操蹂躙していることに怖気付き故郷丹陽逃げ帰ろうとしたが、曹操本拠地である兗州で、張邈張超兄弟陳宮らが呂布引き入れ反乱起こしたため、曹操軍撤退することになり、危機脱した。 しかし陶謙は病で重篤に陥り、糜竺徐州劉備に譲るよう遺言託し間もなく死去した享年63二人の子仕官しなかった。

※この「曹操との敵対」の解説は、「陶謙」の解説の一部です。
「曹操との敵対」を含む「陶謙」の記事については、「陶謙」の概要を参照ください。

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