曹操の傀儡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 16:39 UTC 版)
建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。 このような状況に憂慮した献帝は、曹操が謁見した時に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と、忠誠か譲位のどちらかにするようちらつかせた。このとき曹操は恐懼のあまり冷や汗をかいたため、以降宮中への参内を控えるようになったという。 196年に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった。建安19年(214年)には献帝の皇后伏寿が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とする事を余儀なくされた。
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