曹操の後継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:53 UTC 版)
曹操と卞氏(武宣皇后)のあいだの長男として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍した。建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が宛城の戦いで戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。『三国志』魏志によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。呂布討伐や官渡の戦い以降の華北平定戦も参加し、戦場に身を置くこととなる。 曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。通説では建安21年-22年(216年-217年)に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、実際は側近たちによる権力闘争であった。争いの最初は曹丕が優柔不断で対策がなかったが、部下が考え出した策によって優位を取り戻した。曹操も曹丕と曹植のいずれかを後継とするか迷っていたが、最終的に賈詡の皮肉で曹丕に確定し、217年に曹操から太子に正式に指名される。建安24年(219年)、曹操が漢中への出兵で不在の時に魏諷の反乱が起こるが、陳禕が曹丕に密告したために露見し、魏諷は捕らえられ処刑された。 建安25年(220年)に父・曹操が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。魏王に即位した頃、臧覇の部下と30余万の青州兵は、曹操が死去すると、天下が乱れると考え、勝手に持ち場を離れ(『魏略』、「臧覇伝」)、青州へと帰還していった。劉備は曹操が死んだことを聞くと弔問の使者韓冉を遣わしたという。曹丕は劉備が曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた。 一方、私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏したため、厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考える者があった。これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ(毒を以て毒を制すの意)」といった。曹丕は、房陵・上庸・西城の三郡を合併して新城郡とし、孟達に新城太守を担当させた。
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