曹操の参謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 00:25 UTC 版)
200年(建安5年)、官渡の戦いで袁紹軍の許攸が降伏し、烏巣に宿営している袁紹軍の兵糧輸送隊の守備が手薄なことを暴露して、そこに奇襲をかけるよう進言してきた。曹操の側近たちの多くが許攸の発言を疑ったが、賈詡は荀攸と共にこの意見を支持した。曹操は彼らの意見に従い、自ら歩騎5千人を指揮して奇襲を成功させ、烏巣の袁紹軍を大破した。後に、曹操が冀州を平定し牧となると、賈詡は太中大夫に転任した。 211年(建安16年)、曹操が馬超・韓遂の連合軍と潼関で戦った時(潼関の戦い)、賈詡は曹操に離間の計を進言して、馬超と韓遂を不和にさせ、彼らを撃破することに成功した。 当時、曹操の後継者を選ぶにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕派と、文才に優れた曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていた。曹操から諮問を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表の事を考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長子以外を後継者にしたことで国を分裂・混乱させ、その結果、外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆した。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、かくして嫡子の曹丕を太子とした。 賈詡は、自らが古参でもないのに策謀に長けていることから、疑われることを恐れて門を閉ざし、私的な交際をしなかった。天下の智者はこのことを語り、賈詡のところに集まった。
※この「曹操の参謀」の解説は、「賈詡」の解説の一部です。
「曹操の参謀」を含む「賈詡」の記事については、「賈詡」の概要を参照ください。
- 曹操の参謀のページへのリンク