張繡の懐刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 00:25 UTC 版)
197年(建安2年)、張繡は曹操に攻め込まれて降伏した。しかし、曹操が張繡の族父の張済の妻を妾にし、更に張繡を暗殺しようとしたため、張繡は反乱を決意した。張繡は賈詡の計略に従い、張繡軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらった後、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹昂・典韋を戦死させた。 199年(建安4年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は張繡を味方に引き入れようとした。張繡がこれに応じようとすると、賈詡は曹操に降るよう進言した。張繡が「袁紹の方が曹操より強大であり、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と渋ると、賈詡は曹操が天子を擁していること、弱小である曹操だからこそ味方になる勢力を必ず厚遇してくれること、天下を狙う曹操なら個人的な怨恨を水に流すことで、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いないこと、を理由に挙げた。張繡が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、賈詡の言うとおりに曹操は彼らを礼遇した。賈詡は曹操の上奏により執金吾に、次いで冀州牧・参司空軍事に任じられ、以後は曹操の参謀として働いた。
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