中国官制における軍師の沿革
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両漢交替期―軍師の起源 官制上の軍師は、両漢交替期の群雄が名士を招聘したことに端を発する。劉秀配下の鄧禹における韓歆、隗囂における方望が当時の軍師の例である。諸軍閥は軍師を文字通り「師」として、帷幄で謀略をめぐらす任務を託した。群雄と軍師との関係は君臣の間柄ではなく、軍師は進退去就の自由を有する賓客として遇された。両漢交替期の軍師は戦時体制下の臨時職だったため、後漢の中国統一ののちに廃止された。 後漢末期―名士の取り込み 後漢末期の群雄蜂起に際して軍師が再び現れた。袁紹における盧植、劉表における蔡瑁が例として挙げられる。盧植は黄巾討伐で功を挙げた当代の名儒として、蔡瑁は荊州の名士として知られていた。当時の名士とは高い名声を持った知識人(主に儒者)のことである。名士は学識・知恵を期待されて、あるいは群雄が覇権を正当化する象徴として、あるいは名士層を抱き込む目的で軍師として迎えられたとみられる。 後漢の主な官僚登用法である郷挙里選は地方官や地方の有力者がその地方の優秀な人物を推薦する制度であり、その地方での名声が重要視されたので、名士は郷挙里選で推挙されやすかった。郷挙里選の中で特に重視された孝廉では儒教の教養が重視された。孫権の軍師になった張昭も孝廉に推挙されているが、徐州など北方で名声を博した名士であり、孫策は張昭を師友の礼をもって遇している。 劉備政権で軍師中郎将・軍師将軍・丞相を務めた諸葛亮は若くして司馬徽・龐徳公に「臥龍」と評されて期待された荊州の名士だった。劉備の死後、諸葛亮は劉禅政権を丞相として取り仕切ったが、荊州出身の人材を重用し、自身の後継者にも荊州出身の蔣琬を指名した。 曹操の参謀集団―軍師・軍師祭酒 一方、曹操は司空府・丞相府において軍師・軍師祭酒による参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた。とりわけ中軍師・荀攸は軍師集団の筆頭に序せられ、「軍事・国政・人事・裁判・法制はみな荀攸に決させた」と評された。また、曹操が新たに設置した軍師祭酒は、制度化された本格的な参謀官職だった。例えば郭嘉は曹操の諮問に与って「深く算略に通じ、事理を見極めた」と評され、建安七子に数えられる陳琳・王粲・阮瑀・徐幹ら名文家は曹操の秘書として機密を扱った。自己の陣営に名士を軍師として取り込む点で曹操と当代の群雄とは共通していたが、曹操はより積極的に軍師を組織的な軍事・政治顧問として用いた。 曹魏・両晋―監軍としての軍師 魏が建国され、曹操政権の中枢が丞相府から魏公国へと移ると、軍師は参謀集団としての役割を終えた。代わって、方面軍最高司令官たる都督を監察する任務が軍師に与えられるようになった。例えば、大将軍軍師・辛毗は蜀軍と対峙する大都督・司馬懿のもとに派遣され、その軍事行動を牽制し、全軍の将兵を監督した。 西晋では景帝・司馬師の諱を避けて「軍司」と改称された が、地方軍団の監察官としての機能は曹魏から継承された。例えば八王の乱に際し、司馬倫は部将の管襲を司馬冏の軍司として派遣したが、司馬冏は口実を設けて管襲を殺した。これは監察を任務とする軍司が方面軍にとって目障りな存在だったことを示す事件である。 晋代の軍司は都督を代行する機能をも備えていた。重病の都督荊州諸軍事・羊祜のもとに派遣された軍司・杜預が都督の補佐を務め、羊祜の死後直ちに都督に就任したことはその例である。やがて軍司は都督の交代に際し、後任の都督に予定された者が暫定的に就任する官職へと変質していき、東晋ではこの傾向がさらに強まった。 南北朝―軍師の衰退 監察の機能を減ぜられた軍司は、本来的に正規軍制の外の官職でもあることから次第に廃れていった。南朝では梁の羊侃が元法僧の軍司を務めたのが監軍としての軍司の最後である。他方、北朝では北魏・北斉が魏晋の監軍としての軍司の制度を忠実に継承したが、その存在意義はやはり後退していった。隋唐で御史が軍の監察を行うに至り、制度としての軍師は設けられなくなった。
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