中国宣教の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 02:32 UTC 版)
キリスト教を日本へもたらしたフランシスコ・ザビエルは、日本人の精神性に大きな影響を与えているのは中国文化であると見抜き、中国宣教の重要性を指摘。自ら中国宣教を志したが、入国許可を得られぬまま、上川島で亡くなった。このザビエルの遺志をついだアレッサンドロ・ヴァリニャーノの要請を受け、マテオ・リッチらが1579年に明朝末期の中国本土へついに足を踏み入れた。リッチは中国において知識階級に受け入れられるために儒学者の衣服をまとい、中国語と中国文化を学んだ。相手を低く見てヨーロッパの文化を一方的に押し付けるのではなく、相手の文化を評価・尊重し、これに適応するのがイエズス会の「適応政策」(適応主義)であった。この方法論によってリッチは多くの知識階級の知己を得、キリスト教徒を増やすことに成功した。 清代に入ってもイエズス会の活動は続いていたが、特に中国史上屈指の名君とも言われる康熙帝が、高い素養を持って西洋の最先端の知識をもたらしたイエズス会員を歓迎し、布教の自由を与えたため、17世紀の終わりには民衆から政府の高官まで多くの中国人がカトリック信徒となった。イエズス会員は中国社会に受け入れられることに成功し、高い学識を生かして宮廷にも登用されていた。 中国人たちはイエズス会員の持つ天文学・数学・暦法などの豊富な科学知識に圧倒された。イエズス会員が宮廷付属の天文台での観測を行ったため、皇帝は日食の日時を正確に予測できるようになった。イエズス会員の中には科学知識だけでなく、絵画の才能によって宮廷画家として活躍するジュゼッペ・カスティリオーネのようなものもいた。
※この「中国宣教の進展」の解説は、「典礼論争」の解説の一部です。
「中国宣教の進展」を含む「典礼論争」の記事については、「典礼論争」の概要を参照ください。
- 中国宣教の進展のページへのリンク