白衣渡江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:05 UTC 版)
この関羽の快進撃は、曹操領内で賊の蜂起を招いた。さらに丞相掾の魏諷までもが反乱を起こすなどしたため、曹操は動揺し遷都を考えるようになる。しかし曹操の参謀である司馬懿と蔣済はこれに反対し、建安22年(217年)から曹操に形式上臣従していた孫権に関羽の背後を突くことを勧め、江南に孫権を封ずることを許せば、樊城の包囲は解けると進言した。曹操はこれに従った。曹操は関羽と孫権が対峙して戦うことを望んだため、曹仁に命じて孫権の手紙を弩を使って関羽の陣に撃ち込みこれを知らせた。関羽はこれに躊躇し行動を決めることができなかった。 建安20年(215年)の孫権と劉備の荊州争奪戦などにより孫権と関羽の仲は険悪化しており、建安22年(217年)に対劉備親和派の魯粛が死去して対劉備強硬派だった呂蒙が都督になっていた。呂蒙は長江を超えて曹操と徐州を争っても得るものが無く、関羽を排除して長江に拠った方が孫権のためになると進言しており、孫権もこの意見を尤もだと認めていた。関羽は傲慢な性格で孫権を軽視し、孫権との婚礼を断ると同時に孫権を罵倒するなどしたため、孫権は反感を抱いており、討伐を決定した。 関羽軍が呉と蜀の国境に設けられた関所の食料を勝手に奪う事件が起きると、孫権はついに呂蒙を先陣として派遣した。呂蒙・陸遜らは秘密裏に進軍したが、関羽の本拠地の江陵・公安は主力軍不在であり、さらに関羽に反感を抱いていた守将の糜芳と士仁らが寝返り、結果として呉軍に落とされた。短期間で荊州の関羽の支配地は孫権に征服されたのである。
※この「白衣渡江」の解説は、「樊城の戦い」の解説の一部です。
「白衣渡江」を含む「樊城の戦い」の記事については、「樊城の戦い」の概要を参照ください。
- 白衣渡江のページへのリンク