関羽征討戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:54 UTC 版)
当時、孫権は揚州北部と徐州を巡り曹操と争っていたが、呂蒙は「関羽が驕慢でありながら兼併せんとの野心を持ち、加えて上流に国を構えている情勢からいって、両国の友好関係も長くは続くまいと思われた。孫皎に南郡を、潘璋に白帝を守らせ、蔣欽に遊撃部隊1万を率いさせ長江の上下を巡回させ曹操に対抗する。私は国家の御為に先駆けとして襄陽を占拠、関羽の力がなくても曹操に対抗できます。劉備、関羽の君臣は詐術と武力を矜持とし、所々で裏切るので腹心の待遇をすべきではありません。徐州を守る曹操の兵は少ないので、勝てるでしょう。しかし徐州は、平原との連動が容易になり、騎兵が使いやすい、徐州を攻めてもすぐに奪回されるから意味がない。徐州より、関羽所在地の南郡が先です。長江以南を占拠にして、この有利な形勢で外敵に征伐を行い領土を安全に拡張する」と進言した。孫権はこれを受け入れ、関羽を警戒すると、一方友好的に付き合っていたという。 建安24年(219年)、劉備が益州・漢中・荊州半分を領有した後、諸葛瑾は再び使者としておもむき荊州返還を要求したが、返還が実現せずに失敗している。その後孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽はこれを断り、孫権の使者を罵倒した。荊州の守将であった関羽が曹操領の荊州の拠点である樊城を攻撃した(樊城の戦い)。孫権は関羽に救援を申し出たが、関羽はその遅延に怒り「狢子(貶す意味)!樊城が陥落したとき、拙者は孫権を滅ぼさずにいられようか!」罵って言った。呂蒙が言ったとおり、丁度関羽は曹仁が守る樊城攻めに掛かりきりであり、孫権に対する備えを怠りがちであった。また関羽は于禁軍を捕虜にした直後に、彼等を江陵送りにして拘禁すると、食料不足を口実に湘水の境界線に侵入して呉の境地から軍需物資を強奪した。呂蒙は病と偽り、孫権と共に関羽を油断させる計略を立てた。病と称して建業に還った時、その帰路の途中で陸遜は呂蒙と対談を申し入れ、関羽を打倒し荊州を手に入れる謀を練ることを勧めた。呂蒙はわざと弱音を吐き、陸遜に「関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった」と言った。その後、呂蒙は建業で孫権と会ったとき、代理の武将について相談されたため、陸遜は才能が優れており、かつ関羽に名が知られていない事から、適任であると述べた。孫権はかくして陸遜を召し、呂蒙に代えた。同時に虞翻が医術も知っていたため、呂蒙は孫権に対して虞翻を自分に従わせる事を請い、合わせてこれを機に虞翻の罪が赦される事を欲した。全琮は関羽討伐の計略を上疏し、孫権が既に呂蒙と関羽攻略の計画を立てていたため、事が漏れるのを恐れて上表を無視した。 その後、慢心していた関羽は、油断をしたのか呂蒙らの備えを怠るようになり、さらには岸に大量の見張り台を設けると、留守役の軍の部分を、樊城攻めに回すようになった。軍の全権を任された呂蒙は、陸遜・虞翻・蔣欽とともに荊州を進軍し、孫皎を後詰めとした。夜半に川辺を守る敵に夜襲を仕掛け、呂蒙は軍を指揮して見張り台に潜入させ、すべての兵士を生け捕りにした。荊州まで来た時、関羽の設置した大量の見張りを警戒して、商人の振りをして守備軍を騙し討ちにしたため、関羽らは呂蒙の進軍に気付く事ができなかった。この場面は「白衣渡江(白い服は当時の商人の衣装だった)」と呼ばれる。虞翻の働きもあり関羽配下の士仁・糜芳は瞬く間に降伏、呂蒙は公安と南郡を占拠した。 孫権は荊州諸郡を取り返して、樊城で徐晃に破られた関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いて向かって来ている事を知り、それを恐れて西の麦城に籠らざるを得なかった。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は偽って降り、幡旗を立てて城上に人を象って遁走した。呂蒙は南郡に留まり、占領地において狼藉を働いた同郷の兵士を斬るなど軍律を徹底させ、関羽軍の兵士の家族を保護するなど善政を敷き、陸遜は関羽の益州への退路を断ち孤立させた。関羽は使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしたが、呂蒙はその度ごとに関羽や関羽の部下の家族たちを保護していることをわざと使者に知らせた。使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失って、やがて関羽の軍は瓦解し、大半の将兵が孫権軍に降伏した。孫権は朱然と潘璋に追跡させた。冬12月に当陽県の臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕らえられた。孫権は関羽を生かして劉・曹にぶつけたいと思ったが、左右の者たちの「狼の子を養う事はできませぬ。のちに必ず害をなすでしょう。曹操は即座に彼を排除しなかったために自ら大きな心配事を作り、都を遷そうと提議したのです。今、どうして生かしておけましょう!」という言葉で、やむなく関羽を斬首した。関羽の首級を曹操に送ると、孫権は諸侯の礼をもって関羽の死体を葬った。こうして呂蒙は関羽を討ち、荊州を奪還するという大功績を挙げた。呂蒙は南郡太守となり、孱陵侯に封じられ、銭1億銭と黄金500斤を賜った。その他、呂蒙に対する厚遇は大きかったという。 しかし、まもなく呂蒙は病床につくようになり、孫権は彼を内殿に迎え入れて看病させた。孫権は甚だ嘆き悲しみ、しばしばその顔色を窺おうとしたが、彼に心労を与えるのを恐れ、壁に穴を開けてはいつも監視し、またその容態を聞くたびに一喜一憂したという。孫権は賞金をかけてまで呂蒙を治療させたが、その甲斐もなく呂蒙は219年末に死去した。享年42。孫権からの贈り物はすべて返還し、葬儀もまた簡素にするよう遺言したという。 呂蒙は病床にある時、江陵の鎮守として朱然を推していたが。荊州での戦いで活躍した陸遜がこの後、呉の軍政上の責任者となった。
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