関羽の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:05 UTC 版)
その後、関羽は益州に逃れようとしたが、孫権は荊州の大半を手中に収めていたため果たせなかった。関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を指揮して向かってきている事を知り、それを恐れて西の麦城に拠った。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は偽って降り、幡旗を立てて城上に人を象って遁走した。孫権は潘璋・朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、関羽および子の関平を捕らえた。孫権は関羽を生かして劉・曹にぶつけたいと思ったが、左右の者たちが言った「狼の子を養うことはできませぬ。のちに必ず害をなすでしょう。曹操は即座に彼を排除しなかったために自ら大きな心配事を作り、都を遷そうと提議したのです。今、どうして生かしておけましょう!」という諫言を聞き入れ、そこで関羽を斬首した。その首は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に彼の死体を葬った。また曹操も諸侯の礼をもって洛陽に彼の首を葬った。
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