関羽の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:14 UTC 版)
群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った(『呉歴』)。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った(『関羽伝』)。 章武2年(222年)、関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗を喫した。 景耀3年(260年)、蜀漢の2代皇帝劉禅より壮繆侯(または壮穆侯)の爵諡を送られた。 関羽の子孫は蜀漢の列侯の1人として続いたが、炎興元年(263年)に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子であった龐会が関羽の一族を皆殺しにしたという(『蜀記』)。ただし、王隠の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の陳寿、蜀臣の孫である常璩も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。『宋書』に登場する河東郡の関康之 や唐代の宰相関播は関羽の後裔とされる。 唐代には、武廟六十四将に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。 現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である(今泉恂之助『関羽伝』)。
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