関羽の進軍とは? わかりやすく解説

関羽の進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:05 UTC 版)

樊城の戦い」の記事における「関羽の進軍」の解説

建安23年218年)末に荊州南陽郡宛県で事件起きた南陽郡当時曹操支配であったが、ここの太守である東里袞曹操認められようとして領民過酷な賦役課していた。それに不満を抱いた侯音関羽通じて反乱起こしたのである侯音建安24年219年初めに樊城を守る曹仁によって斬られたが、これにより南陽郡における曹操軍動揺する建安24年219年)、定軍山の戦い劉備曹操勝利して漢中奪い漢中王を称した。それにより劉備部下関羽前将軍任命され荊州における軍与えられた。そして関羽曹操領の事件見てこの年7月息子関平配下趙累と共に水陸から南陽郡進軍する当時樊城曹仁が、襄陽呂常守っていたが、曹操は関羽の進軍を知って于禁大将にした7軍を援軍として派遣し曹仁龐徳遊軍として城外出して関羽戦わせた。だが折から長雨漢水氾濫し、7軍は水没してしまう。于禁高地上ることで難を逃れたが、関羽水軍使って攻撃してきたために、3の兵とともに降伏した龐徳配下董衝董超らが降伏しようとするとこれらを斬り、あくまで抵抗続けた。しかし配下の将が関羽降伏して孤立無援になると、舟を使って曹仁樊城逃れようとしたが、捕らえられて斬られた。後にこのことを聞いた曹操は、「30年以上も仕えてきた于禁龐徳に及ばなかったとは思わなかった」と嘆き龐徳忠義に涙を流しその2人の息子らは列侯取り立てた温恢は「川の水増えているのに、曹仁敵中孤立し危険に備えていない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難引き起こすだろう」と語っていたが、この不安は的中してしまった。 この勝利乗じて関羽樊城襄陽包囲した。さらに荊州刺史の胡修・南郷太守傅方らを降し関羽方々印綬ばら撒き・郟・陸渾といった曹操領内群盗などが一斉に蜂起したため、中原震動した樊城洪水により城壁の上部まで水没し孤立無援の状態に陥っていた。

※この「関羽の進軍」の解説は、「樊城の戦い」の解説の一部です。
「関羽の進軍」を含む「樊城の戦い」の記事については、「樊城の戦い」の概要を参照ください。

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