関羽の進軍
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建安23年(218年)末に荊州南陽郡宛県で事件が起きた。南陽郡は当時、曹操の支配領であったが、ここの太守である東里袞が曹操に認められようとして領民に過酷な賦役を課していた。それに不満を抱いた侯音が関羽と通じて反乱を起こしたのである。侯音は建安24年(219年)初めに樊城を守る曹仁によって斬られたが、これにより南陽郡における曹操軍が動揺する。 建安24年(219年)、定軍山の戦いで劉備は曹操に勝利して漢中を奪い、漢中王を称した。それにより劉備の部下の関羽も前将軍に任命され、荊州における軍権も与えられた。そして関羽は曹操領の事件を見て、この年の7月に息子の関平や配下の趙累らと共に水陸から南陽郡に進軍する。 当時、樊城は曹仁が、襄陽は呂常が守っていたが、曹操は関羽の進軍を知って于禁を大将にした7軍を援軍として派遣し、曹仁も龐徳を遊軍として城外に出して関羽と戦わせた。だが折からの長雨で漢水が氾濫し、7軍は水没してしまう。于禁は高地に上ることで難を逃れたが、関羽が水軍を使って攻撃してきたために、3万の兵とともに降伏した。龐徳は配下の董衝や董超らが降伏しようとするとこれらを斬り、あくまで抵抗を続けた。しかし配下の将が関羽に降伏して孤立無援になると、舟を使って曹仁の樊城に逃れようとしたが、捕らえられて斬られた。後にこのことを聞いた曹操は、「30年以上も仕えてきた于禁が龐徳に及ばなかったとは思わなかった」と嘆き、龐徳の忠義に涙を流し、その2人の息子らは列侯に取り立てた。 温恢は「川の水が増えているのに、曹仁は敵中に孤立し、危険に備えていない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っていたが、この不安は的中してしまった。 この勝利に乗じて関羽は樊城と襄陽を包囲した。さらに荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方らを降し、関羽は方々に印綬をばら撒き、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起したため、中原は震動した。樊城も洪水により城壁の上部まで水没し、孤立無援の状態に陥っていた。
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