曹操に出仕
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建安3年(198年)、王朗は曹操に召し出されたため曲阿から出発し、長江や海を往来しながら数年かけて都に辿り着いた。孔融は王朗が到着に時間を要していることを心配し、手紙を送って慰労した。都に到着後、曹操から諫議大夫・参司空軍事に任命された。『漢晋春秋』によると、孫策の性格を尋ねられた王朗は「孫策は大きな野心と優れた人材を有しているため、一介の賊では終わらないでしょう」と語った。 王朗の『家伝』によると、王朗が若い頃に付き合いがあった人物の中に劉陽という者がいたが、早くに亡くなっていた。生前の劉陽と曹操は敵対していたため、曹操は劉陽の遺族に辛く当たっていた。しかし、王朗は劉陽の遺族を会稽において匿っていた。会稽から帰還後、王朗は曹操を何度も説得し劉陽一家の赦免を曹操に認めさせたという。また孫策に手紙を送り、劉繇の遺族が害されないよう依頼もしたという。 建安18年(213年)、魏が藩国として建国された時には丞相参軍祭酒に就任しており、また魏郡太守を兼任した。さらに昇進して、少府・奉常・大理を歴任した。大理としての仕事振りは寛容を旨とし、罪に疑義があるときは軽くするよう取り計らった。その法の運用振りは鍾繇と並び賞賛された。 『魏略』によると、かつて会稽において米の飯を節約したことを曹操にからかわれたため、王朗はかつてのように節約すべきでないときに節約したことと、今の曹操のように節約すべきときに節約しないことは全く異なると反論した。また、孫権が曹操に臣従し、貢ぎ物を送ってきたことについて意見を求められると「揚州を併呑した後、荊州南部や益州を席巻すれば状勢は決まります。慶事は続くでしょう」と述べた。
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曹操に出仕
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建安3年(198年)、王朗は曹操に召し出されたため曲阿から出発し、長江や海を往来しながら数年かけて都に辿り着いた。孔融は王朗が到着に時間を要していることを心配し、手紙を送って慰労した。都に到着後、曹操から諫議大夫・参司空軍事に任命された。『漢晋春秋』によると、孫策の性格を尋ねられた王朗は「孫策は大きな野心と優れた人材を有しているため、一介の賊では終わらないでしょう」と語った。 王朗の『家伝』によると、王朗が若い頃に付き合いがあった人物の中に劉陽という者がいたが、早くに亡くなっていた。生前の劉陽と曹操は敵対していたため、曹操は劉陽の遺族に辛く当たっていた。しかし、王朗は劉陽の遺族を会稽において匿っていた。会稽から帰還後、王朗は曹操を何度も説得し劉陽一家の赦免を曹操に認めさせたという。また孫策に手紙を送り、劉繇の遺族が害されないよう依頼もしたという。 建安18年(213年)、魏が藩属として政権が樹立された時には丞相参軍祭酒に就任しており、また魏郡太守を兼任した。さらに昇進して、少府・奉常・大理を歴任した。大理としての仕事振りは寛容を旨とし、罪に疑義があるときは軽くするよう取り計らった。その法の運用振りは鍾繇と並び賞賛された。 『魏略』によると、かつて会稽において米の飯を節約したことを曹操にからかわれたため、王朗はかつてのように節約すべきでないときに節約したことと、今の曹操のように節約すべきときに節約しないことは全く異なると反論した。また、曹操は、なぜ孫権が漢王朝に臣従するのか分からない、貢ぎ物を送ってきたことについて意見を求められると「孫権は過去の過ちを補うために、漢王朝に忠誠を示すような姿勢をとる。東西部が臣従した後、荊州南部や益州は魏に屈服するだろう。状勢は決まり、慶事は続くでしょう」と述べた。
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