田楷
初平二年(一九一)、公孫瓚は従弟公孫越が袁紹に殺されたことを恨み、軍勢を出して磐河に布陣した。袁紹は彼を恐れ、公孫瓚の従弟公孫範に勃海太守の印綬を譲った。ちょうど青州・徐州黄巾賊が勃海郡に侵入したところだったが、公孫瓚はこれを撃破して軍勢を増やし、そのまま界橋まで進軍した。ここで公孫瓚は田楷を青州刺史、厳綱を冀州刺史、単経を兗州刺史に任命し、諸郡県の太守・県令を任じたが、袁紹の将麴義に敗れて厳綱が捕虜になった《公孫瓚伝》。 袁紹は勝利に乗じて崔巨業に故安城を包囲させたが、公孫瓚は崔巨業が撤退しようとしたところを追撃して七・八千人を討ち取った《後漢書公孫瓚伝》。高唐県令劉備は賊徒に敗北して公孫瓚を頼っていたが、公孫瓚は彼を別部司馬に任じて田楷とともに袁紹に対抗させ、しばしば功績を挙げている《先主伝》。公孫瓚軍はそのまま南進して郡県を攻め落とし、平原郡まで到達すると田楷・劉備を斉に駐屯させた《先主・後漢書公孫瓚伝》。 四年、兗州牧曹操が徐州牧陶謙を攻撃したとき、田楷は援軍要請に応じて劉備とともに陶謙を救援した。曹操が兵を退くと田楷は劉備を徐州に留めて青州に帰還した《陶謙・先主伝》。冀州牧袁紹は長子袁譚を嫌っており、同年、外に出向させて彼を青州都督とした。のちに袁紹と同盟関係にあった曹操が袁譚を青州刺史に任命している。はじめ袁譚は平原一郡を領有するだけだったが、そのまま北進して田楷を追放し、翌建安元年(一九六)には東方に行って北海相孔融を攻撃した《袁紹・後漢書孔融伝》。 建安四年、袁紹が易京を陥落させたとき、田楷は袁紹軍と戦って討死したようである《後漢書公孫瓚伝》。 【参照】袁紹 / 袁譚 / 麴義 / 厳綱 / 公孫越 / 公孫瓚 / 公孫範 / 孔融 / 崔巨業 / 単経 / 曹操 / 陶謙 / 劉備 / 易京 / 兗州 / 界橋 / 冀州 / 故安県 / 高唐県 / 徐州 / 斉国 / 青州 / 磐河 / 平原郡 / 北海国 / 勃海郡 / 県令 / 刺史 / 相 / 太守 / 別部司馬 / 牧 / 黄巾賊 |
田楷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 13:03 UTC 版)
田楷 | |
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後漢 青州刺史 |
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出生 | 生年不詳 |
死去 | 建安4年(199年) |
拼音 | Tián Kǎi |
主君 | 公孫瓚 |
田 楷 / 田 揩[1](でん かい、? - 199年)は、中国後漢時代末期の軍人。
正史の事跡
公孫瓚配下。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の公孫範の活躍もあって、袁紹をも凌ぐほどに河北で勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は厳綱を冀州刺史、単経を兗州刺史に任命し、同時に田楷も青州刺史に任命した。
初平3年(192年)、公孫瓚は界橋の戦いで敗れたものの、袁紹軍の崔巨業を撃破して、平原方面まで南進した。これにより田楷は斉に駐屯し、公孫瓚の下へ頼ってきた劉備らを配下として、袁紹に対抗した。しかし2年余り戦うも糧食が尽きたため、兵卒が疲労困憊し、青州の民衆も飢えに苦しんだという。
初平4年(193年)、曹操が陶謙を攻撃した時、陶謙の援軍要請を受け徐州へ赴き、劉備の補佐を受けて陶謙を救援した。曹操が兵を退くと、劉備は陶謙の招聘を受けて徐州にとどまることになり、田楷は劉備と別れて青州に戻った。
やがて、袁紹の子の袁譚が平原を拠点とし青州に進出したため(後に曹操から刺史に任命される)、田楷は駆逐されてしまった[2]。その後、田楷は袁紹軍に敗れて戦死した。
物語中の田楷
小説『三国志演義』でも登場するが、公孫瓚や袁紹との関係については触れられておらず、史実同様に陶謙への援軍となった場面にだけ登場し、以後は姿を見せない。
脚注
- ^ 『三国志』や『三国志演義』では田楷、『後漢書』公孫瓚伝では田揩とする。
- ^ 『後漢書』公孫瓚伝によれば、田楷は薊へ帰還したとの記述がある。しかし、『三国志』魏書袁紹伝は、建安4年(199年)の公孫瓚滅亡後に袁譚が青州へ向かったとしている一方で、『三国志』魏書崔琰伝注は、建安元年(196年)に袁譚は青州刺史の孔融を青州から駆逐した、と記載している。そのため、田楷が青州から追われた時期が公孫瓚滅亡前後のいずれか、はっきりとしない。
参考文献
- >> 「田楷」を含む用語の索引
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