公孫範とは? わかりやすく解説

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公孫範Gongsun Fan

コウソンハン

(?~?)
勃海太守

公孫瓚従弟

初平二年(一九一)、公孫瓚従弟公孫越殺されたことを怒り袁紹復讐戦を誓って軍勢催し冀州侵入する諸城のほとんどが呼応した袁紹は彼を恐れ自分帯びていた勃海太守印綬を公孫範に与えて講和ようとしたが、公孫範は勃海着任するなり郡兵を率いて公孫瓚軍に合流した。かくて界決戦火蓋切られる公孫瓚伝》。

挙兵以来諸将人質出して袁紹預けていたらしく、公孫範も袁紹元にいたのだろう。

参照袁紹 / 公孫越 / 公孫瓚 / 界 / 冀州 / 勃海 / 太守 / 印綬


公孫範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 10:23 UTC 版)

公孫 範(こうそん はん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。幽州遼西郡令支県の人。家系は遼西公孫氏。従兄は公孫瓚。同じく公孫瓚の従弟である公孫越との続柄は不明で、兄弟とも従兄弟とも考えられる。

事跡

姓名 公孫範
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 幽州遼西郡令支県
職官 勃海太守
爵位・号等 -
陣営・所属等 公孫瓚
家族・一族 一族:公孫瓚(従兄)

公孫越(兄弟?,従兄弟?)
公孫続(公孫瓚の子)

初平2年(191年)、袁紹陣営の周昂(『後漢書』公孫瓚伝によれば周昕)との戦いで公孫越が戦死したため、公孫瓚は磐河に出兵して袁紹との対決姿勢を強めた。袁紹は衝突を回避しようと、自身が有していた勃海太守印綬を公孫範に授ける。公孫範は勃海郡の軍を率いて、公孫瓚を助け青州徐州の黄巾賊を撃破し、公孫瓚の勢力拡大に大きく貢献した。

初平3年(192年)、公孫範は公孫瓚に従って、袁紹軍との界橋の戦いに参加した。しかし袁紹軍の麴義の活躍の前に、公孫瓚は厳綱を討ち取られるという大敗を喫する。公孫範は公孫瓚と共に敗軍を率い、へ退却した。

その後は史書に名が見当たらず、建安4年(199年)の公孫瓚滅亡時まで健在であったかどうかも不明である。

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献

関連項目



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