孫権配下として
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甘寧が身を寄せると、周瑜・呂蒙が連名で推薦した為、孫権は旧臣同様に甘寧を遇することにした。この際、甘寧は、まず劉表と黄祖を討って荊州を押さえ、さらに巴蜀(益州)をも攻め取るという作戦を提言した。国内の反乱を心配する張昭はこれに反対したが、甘寧は張昭に堂々と反論し、孫権も甘寧の言葉を気に入り、杯を与えて信頼を示した。 208年(建安13年)、甘寧は黄祖攻めに従軍した。江夏で黄祖を討ち破った際、かつての恩人であった蘇飛は生け捕られてしまったが、蘇飛はこっそり人を遣わして甘寧に助命を願った。甘寧もまた蘇飛の恩を忘れず、孫権の前で頭を打ち付けて涙ながらに蘇飛の助命を嘆願したため、孫権はこれを容れている(『呉書』)。孫権は黄祖の軍を吸収すると、甘寧に兵士を与えて当口に駐屯させた。 劉表の勢力を吸収した曹操と孫権が戦った赤壁の戦いでは周瑜に随行して曹操を烏林で打ち破り、続いて南郡の曹仁攻略に参加した。甘寧はまず夷陵を奪取すべきとの計略を立て、すぐに手勢1000人ほどを以って陥落させたが、逆に曹仁から5000から6000の兵士を繰り出されて包囲された。甘寧は猛攻に何日も耐え、平然と談笑して屈しなかった。使者を出して周瑜に状況を知らせたところ、周瑜は呂蒙の計略(「呂蒙伝」を参照)を採用し、凌統だけを留守に残し、その他の諸将を率いて甘寧を救援し囲みを解いた。決戦の末、曹仁は江陵から敗退した。 214年(建安19年)、曹操の揚州における拠点である皖城攻撃に従軍した際には、呂蒙により升城督(攻城隊長)に任命され、城壁をよじのぼって官吏兵士を先導し、あっさりと敵将の朱光を捕らえた。論功行賞の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、この時に折衝将軍を拝命した。 214年-215年(建安19-20年)に曹操が濡須の江西に侵攻し、10万の大軍が長江の水を馬に飲ませるのだと喧伝した。孫権は軍を率いて応戦、甘寧を前部督に任じて3千の兵を与えた。孫権は甘寧に曹操の軍営へ夜襲をかけさせることにした。甘寧は勇士100人を集め、孫権から特別に与えられた米と料理、酒を振舞ったが、部下の都督に甘寧自ら酌をすると俯いたままでいる。甘寧は刀を抜いて膝上に置き「貴様とわしのどちらが主公の知遇を賜っているのか知っておろう?このわしですら死を惜しまぬのに貴様一人が何故死を惜しむのか!」と怒鳴りつけると、都督は慌てて兵士ひとりひとりに酌をして回った。甘寧は二更に100人の決死隊を率い、いななかないよう馬の口に木片を噛ませて出撃した。曹軍の逆茂木を引き抜き、塁壁を乗り越え、数十の首級を挙げた。曹軍は驚き、太鼓を鳴らしてどよめき、松明を星のごとく掲げたが、甘寧はもう引き返して孫軍の本営に入ったところで、鼓吹に演奏させて万歳を称えていた。そのまま夜分を押して孫権に拝謁すると、孫権は喜んで「年寄りを驚かせるには充分であったろうか?少しはお前の大胆さを見られたぞ」と言い、その場で絹千匹と刀百振りを与えた。孫権は「曹操には張遼がおり、余には甘寧がいる。これでちょうど釣り合いが取れているのだ。」と言った。ひと月あまり駐屯したのち、曹操を濡須で打ち破り、曹軍は撤退した。 215年(建安20年)、孫権と劉備が荊州返還を巡って緊張状態になると、魯粛に随行して長沙の益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢3万を号し、精鋭5000人を以って夜半に上流の浅瀬を押えると喧伝した。甘寧はこのとき、300人の兵士を率いていたが、あと500人の兵士を与えてくれれば、関羽の動きを止めるか、さもなくば捕らえることができると進言した。魯粛は甘寧に1000人の選抜兵を預けた。甘寧は夜中に出陣すると、それを聞いた関羽は軍営を瀬に築いたが(関羽瀬)、結局渡河を断念した。甘寧が向こう岸で関羽と対峙し、軍塁(夜月台)が築かれた。孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新・下雉の両県を領させた。 その年の7月以降に孫権は合肥を攻めたが、8月には撤退を決定する。この時孫権が、呂蒙・蔣欽・甘寧・凌統とわずかな手勢しか連れていないのを見て、合肥を守備していた曹操軍の張遼が急襲をかけてきた。甘寧は弓を引いて敵を射ち、凌統らとともに死闘を繰り広げ、なぜ音楽を鳴らさないのかと沈黙する鼓吹隊を怒鳴りつけた。孫権は甘寧の勇壮毅然とした様を褒め称えた。 甘寧はその年の冬に死去。孫権はその死を痛惜した。甘寧が死去すると、夷陵の戦いの前夜に、潘璋は甘寧の軍勢も併合することになった。 子の甘瓌は罪を犯し、流罪先の会稽で病死した。 『晋書』によると、その他の子として甘述がおり、甘昌・甘卓と続いた。甘卓は東晋の建国に尽力したが、後に王敦に討たれている。
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