三国志演義の張遼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:07 UTC 版)
小説『三国志演義』の第十一回に呂布の武将の「八健将」として登場するが、後に劉備の武将関羽に見込まれ、呂布の武将であることに迷いを感じるようになる。思慮が浅い呂布に対して忠言を続けたが、なかなか採用されなかった。第十九回、下邳落城の場面で命乞いする呂布を「呂布の匹夫め!もはや死あるのみ、何を恐れることがあろうか」と大喝し、「お前を殺せなかったことが残念だ」と曹操を罵って自ら頸を延べるが、激怒した曹操を劉備が「かかる誠の士こそ取り立てて然るべき」と止め、関羽も「それがし、文遠殿が忠義知る者。命を懸けてお引き受けいたします」と助命を懇願したことで、曹操も「戯(ざ)れてみただけだ」と戦袍(せんほう、ひたたれ)を張遼に与え、これに感激した張遼は降伏の意を示し、以後、曹操の配下となる。 後に曹操が決死の関羽を包囲した際に、張遼が助命の恩に報いるべく説得を申し出、関羽の「罪」を説き曹操へ帰順させることに成功するが、その際に3つの条件を関羽から突きつけられる。 また、関羽が斬った顔良・文醜に張遼は苦戦している。二将を斬り曹操への恩返しとした関羽は、袁紹に身を寄せている劉備の元に帰参するため、曹操と張遼の家を訪問しているが、曹操と同様仮病を使い面会を断っている。その後、関羽が無断で曹操の元から退去しようとすると、曹操らと共にそれを見送る。五関を突破した関羽の元に、曹操からの許可状を届けに再び登場し、関羽を憎む夏侯惇との間を仲裁することになる。 赤壁の戦いにも従軍し、火計により敗走する曹操に付き従う。華容道において曹操と同様に関羽と遭遇したが、関羽は情により張遼を見逃す。 第五十三回では合肥で楽進・李典とともに孫権軍を破り宋謙を戦死させ、内通者による夜襲を看破し太史慈ごと伏兵に弓矢の一斉射撃をさせ返り討ちにしている。 第六十七回では、楽進・李典を従える重厚な指揮官として描写されるが、この戦いに関しては、寧ろ『三国志』本伝の方が大々的に張遼の武勇と行動力を書き綴っている。 第八十六回において、曹丕の呉征伐の親征に徐晃と共に従い、徐盛の偽城の計略に驚いた曹丕が退却するのを護衛する最中、兵を伏せていた丁奉の矢を腰に受け、その傷が原因で死去している。
※この「三国志演義の張遼」の解説は、「張遼」の解説の一部です。
「三国志演義の張遼」を含む「張遼」の記事については、「張遼」の概要を参照ください。
- 三国志演義の張遼のページへのリンク