三国志演義の「鶏肋」
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建安24(西暦219)年、定軍山の戦いで蜀の劉備は夏侯淵を討ち取って漢中を奪い漢中王を名乗ったことに魏王の曹操は怒り、漢中を奪還すべく彼自ら陣頭指揮を執り出陣した。しかし、魏は蜀に敗れ、曹操も矢が歯に当たるという危険な目に遭った。曹操は内心、兵を収めて帰ろうと欲したが、蜀軍の笑いものになることを恐れて決断できずにいた。 曹操は夕食の最中も鶏湯を食べながら、進退を思案していた。そこへ夜の伝達事項を聞きに夏侯惇がやってくる。曹操は夏侯惇を前にしても上の空で、碗の中の鶏がらを見ながら「鶏肋、鶏肋…」と呟く。意図も分からぬまま夏侯惇が全軍に「鶏肋」と伝達すると、楊修はそそくさと撤退の準備を始める。驚いた夏侯惇が理由を問うと「鶏肋(鶏のあばら骨)は捨てるには惜しいものでありますが、食べても腹の足しになるほど肉がついておりません。魏王様はそれを漢中に例えられました。即ち漢中は惜しいが、今が撤退すべき頃合いであるとお考えかと存じます」と鶏肋の解釈を披露した。夏侯惇は「お前は魏王の心の内をわかっているな」と感心して自分も撤退準備を始めた。曹操は、全軍が指図もないのに撤退準備をしていることに大いに驚き、楊修に対して「お前は何故流言を広めて軍心を乱したのか」と激怒し、楊修を処刑し継戦を告げた。結局劉備に再び敗れた曹操は楊修の言葉を思い起こし、撤退を決断すると、楊修の遺体を丁重に葬った。
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