そうじょう‐の‐じん〔ソウジヤウ‐〕【宋×襄の仁】
宋襄の仁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 14:08 UTC 版)
宋の国民は大いに怒り、成王の無礼を正すために楚に挑戦することになった。楚軍は首都郢を発し、襄公はこれを受けて決戦の地に宋国内の泓水のほとりを選んだ。やがて楚軍が現れ、川を渡り始めると宋の宰相の目夷(子魚)は「まともに戦えば勝ち目はありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」と進言した。しかし襄公は「君子は人が困っているときにさらに困らせるようなことはしないものだ」と言ってこれを退けた。目夷は「ああ、わが君はいまだに戦いを知らない」と嘆いたという。果たして、川を渡りきった楚軍は陣を完成させ、宋軍を散々に打ち破った。襄公自身も太股に矢傷を負った。このことから、敵に対する無用の情け、分不相応な情けのことを宋襄の仁(そうじょうのじん)と呼ぶようになった。 ただし、宋襄の仁を批判しているのは『春秋左氏伝』であって、『春秋公羊伝』では襄公が詐術を使わずに堂々と戦ったことを賞賛している。 また、中国史学者の落合淳思は「楚は大国で、宋は中小国。宋襄の仁がなくとも楚が勝つのは順当なことだ」と評している。
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宋襄の仁
出典:『Wiktionary』 (2017/12/02 08:36 UTC 版)
成句
出典
- 【白文】
- 宋人既成列,楚人未既濟。司馬曰、「彼衆我寡,及其未既濟也,請擊之!」公曰、「不可。」既濟而未成列,又以告。公曰、「未可。」既陳而後擊之,宋師敗績。公傷股,門官殲焉。國人皆咎公。公曰、「君子不重傷,不禽二毛。古之為軍也,不以阻隘也。寡人雖亡國之餘,不鼓不成列。」
- 【訓読文】
- 宋人既に列を成すに、楚人未だ濟り既へず。司馬曰はく、「彼衆く我寡なし,其の未だ濟り既へずに及びて也,請ふ之を擊たん」と、公曰はく、「可ならず。」、濟り既へて而未だ列を成さず,又以って告ぐ。公曰はく、「未だ可ならず。」陳を既へ後に之を擊つ,宋師敗を績む。公股を傷す,門官殲ぶ。國人皆公を咎む。公曰はく、「君子は傷を重ねず、二毛を擒にせず。古の軍を為すや、隘に阻するをもちいず。寡人亡国の餘と雖ども、列を成さざるに鼓せず」
- 【現代語訳】
- 宋の軍隊は整列を終えていたところ、楚の軍隊は、まだ川を渡っていた。将軍は、「敵は多数で、こちらは少数です。まだ敵は川を渡り終えていません、ここで攻撃しましょう」と進言した。襄公は「だめだ」と許さなかった。(楚軍は)川を渡り終えたが、まだ整列していなかった。将軍は、又攻撃を進言したが、襄公は「まだ、だめだ」と許さなかった。相手が布陣を終えた後に攻撃した。宋軍はさんざんに敗れ、襄公も股に怪我を負い、多くの将兵を失った。宋国の民は、皆襄公をとがめた。襄公は言った、「君子は傷ついた相手を重ねて傷つけることはせず、老兵を捕らえたりもしない。古の戦いにおいては、逃げ場のない狭い場所で相手を攻撃したりはしない。私は亡国の子孫ではあるが、隊列を整えぬ相手を攻撃するようなことはしない」と。
- 【解説】
- 春秋時代、宋に関する泓水の戦いにおける故事。宋は、殷の遺民を封じた国(本文中「亡國之餘」)で、古臭い儀礼因習の国と言う認識があり、それをあざけったものと言える。しかしながら、孔子や孟子は、礼に適った態度として評価しており、孟子は襄公を春秋五覇に数えるほどである。その影響もあってか、司馬遷も史記においては、同情的に描いている。
翻訳
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