華北の覇者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 22:27 UTC 版)
劉聡は西晋を滅ぼすべく、現在の河北省・山東省方面の経略に力を注いだ。311年になると西晋内部では懐帝と司馬越が対立し、遂に懐帝は司馬越討伐の勅命を発するに至り、司馬越は逃亡先で間もなく憂憤の内に病死。この混乱の隙を突いて配下の石勒は司馬越軍10万余を殺害し、西晋の抵抗力と統治力を完全に破壊した。そして6月、劉聡は劉曜・王弥・石勒に命じて洛陽を陥落させて宮殿や宗廟を焼き払い、3万人以上を殺し、懐帝を捕らえて平陽に連行し、西晋を実質的に滅ぼした(永嘉の乱)。この直後に劉聡は王弥と対立したが、王弥は石勒に殺害された。 西晋の残党は懐帝の甥の愍帝を擁立してなおも漢に抵抗していたが、劉聡は劉曜に命じて長安を攻撃させ、316年11月に長安は陥落して愍帝は平陽に拉致され、317年12月に劉聡は処刑して西晋を完全に滅ぼした。こうして漢は華北の主要地域を支配下に置く覇者となった。なお、これ以降は五胡十六国時代と呼ばれ、生き残った晋の皇族は東晋を建てた。
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