華光院と伊達政宗のエピソード
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「正西寺」の記事における「華光院と伊達政宗のエピソード」の解説
天文の乱以後、伊達氏と相馬氏は対立していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗は徳川家康の要請で会津の上杉景勝の領地に北から攻め入るため大坂から仙台へ帰還することになったが、仙道(中通り)は上杉領のため封鎖されて通ることができなかったので、やむなく敵対していた相馬義胤に領内(浜通り)の通過を願い出た。政宗に従う兵は僅かであったが、このとき義胤は政宗を華光院に宿泊させ何事もなく無事に通過させた。 伊達と敵対していた相馬義胤の家臣は皆この期に政宗を討つべきであると評議した。だが、老臣の水谷胤重が末座から進み出て「末座の意見ですが、恐れながら申し上げます。政宗を打つのは容易なことかもしれない。しかし、『窮鳥懐に入らば猟師もこれを殺さず』という。今、政宗は行く道がふさがり、僅かな兵を率いて敵地の通過を依頼してきた。それを謀って討ち取るのは勇者のなすべきことではない。また、これからの戦において、景勝は大群を従え嶮地によって敵と戦い、属将もみな力をあわせれば勝利を収めることができるかもしれない。しかしながら家康公は、武名を天下に轟かし、その老巧ぶりは比する者のない大将とみられている。その属将である政宗を討っても、もし景勝が敗れて家康が勝利を収めれば、当家は家康のために忽ち亡ぼされるであろう。『遠き慮り無くんば、則ち必ず後の憂いあり。』ただ同じく宿泊させるのであれば、我が備えを完全にして、彼の代わりに夜の守りを固めて本国へ返し、他日戦に望んでは両家が運を天に任せて雌雄を決するのが最良と存じます。」と反対論を述べた。そこで主君の義胤や諸臣はなお協議の末、この意見に同意した。 以下は『相馬の歴史と民俗』で引用されている『藩翰譜』から関ヶ原の後の文である。 かくて関が原の合戦事終り、天下悉く平ぎて、相馬既に世帯を没収せられ家滅ぶべきに極まる。政宗徳川殿に訴へ申しけるは、相馬はただにも政宗が年頃の敵なり。それに上杉、石田などにくみしたるが一定に候はんには政宗彼が為に討たるべき時至って候ひしに、君の仰承り馳せ下る由を聞きて忽ちに旧き恨を忘れ新しき恩を施して候ひき。これひとへに彼が野心をさしはさまざりし故にあらずや。且つは又累代弓矢の家、此の時に至て長く断絶すべきこと誠に不便の至りなり、只然るべくは彼が本領安堵の事御免を蒙らばやと折にふれて度々歎き奉りしかば、其の事となく年月を経て後本領をぞ賜ぶたりける。
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