華光院と伊達政宗のエピソードとは? わかりやすく解説

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華光院と伊達政宗のエピソード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 07:02 UTC 版)

正西寺」の記事における「華光院と伊達政宗のエピソード」の解説

天文の乱以後伊達氏相馬氏対立していた。慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い直前伊達政宗徳川家康要請会津の上景勝領地北から攻め入るため大坂から仙台帰還することになったが、仙道中通り)は上杉領のため封鎖されて通ることができなかったので、やむなく敵対していた相馬義胤領内浜通り)の通過願い出た政宗に従う兵は僅かであったが、このとき義胤は政宗華光院宿泊させ何事もなく無事に通過させた。 伊達敵対していた相馬義胤家臣は皆この期政宗を討つべきであると評議した。だが、老臣水谷胤重末座から進み出て末座意見ですが、恐れながら申し上げます政宗を打つのは容易なことかもしれない。しかし、『窮鳥懐に入らば猟師もこれを殺さず』という。今、政宗は行く道がふさがり僅かな兵を率いて敵地通過依頼してきた。それを謀って討ち取るのは勇者のなすべきことではない。また、これからの戦において、景勝大群従え嶮地によって敵と戦い、属将もみな力をあわせれば勝利を収めることができるかもしれないしかしながら家康公は、武名天下轟かし、その老巧ぶりは比する者のない大将とみられている。その属将である政宗討っても、もし景勝敗れて家康勝利を収めれば、当家家康のために忽ち亡ぼされるであろう。『遠き慮り無くんば、則ち必ず後の憂いあり。』ただ同じく宿泊させるであれば我が備えを完全にして、彼の代わりに夜の守り固めて本国返し他日戦に望んで両家運を天に任せ雌雄を決するのが最良存じます。」と反対論述べた。そこで主君の義胤や諸臣はなお協議の末、この意見同意した。 以下は『相馬歴史民俗』で引用されている『藩翰譜』から関ヶ原の後の文である。 かくて関が原の合戦終り天下悉く平ぎて、相馬既に世帯没収せられ家滅ぶべきに極まる政宗徳川殿に訴へ申しけるは、相馬はただにも政宗年頃の敵なり。それに上杉石田などにくみしたるが一定に候はんには政宗彼が為に討たるべき時至って候ひしに、君の仰承り馳せ下る由を聞き忽ちに旧き恨を忘れ新しき恩を施して候ひき。これひとへに彼が野心をさしはさまざりし故にあらずや。且つは累代弓矢の家此の時に至て長く断絶すべきこと誠に不便の至りなり、只然るべくは彼が本領安堵の事御免を蒙らばやと折にふれて度々歎き奉りしかば、其の事となく年月経て本領をぞ賜ぶたりける。

※この「華光院と伊達政宗のエピソード」の解説は、「正西寺」の解説の一部です。
「華光院と伊達政宗のエピソード」を含む「正西寺」の記事については、「正西寺」の概要を参照ください。

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