モアブ婦人会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 08:47 UTC 版)
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モアブ婦人会(モアブふじんかい)は、内村鑑三の娘内村ルツ子の死を記念して結成された会である。
歴史
1912年、内村鑑三の二女ルツ子が死去する。翌1913年の記念日に内村家ゆかりの夫人たちが集まった時に、内村鑑三の主唱で結成されたのがこの会である。発足時は34名の会員がいた。ほとんどが内村聖書研究会の会員の夫人や姉妹など、内村家に関係のあるメンバーである。
ルツ子の母親の内村静子が会長を務め、鑑三も時々出席した。毎週第3水曜日に会員に枝を順繰りに廻って会を開き、聖書研究と感話と祈りをして、軽い茶菓を供するという会であった。
主な会員
- 内村静子(会長)
- 畔上むつ(畔上賢造夫人)
- 藤井喬子(藤井武夫人)
- 宝田あい子(山本七平の夫人の母)
- 黒崎寿美子(黒崎幸吉夫人)
- 南原百合子(南原繁夫人)
- 斎藤仁志(斎藤宗次郎夫人)
- 塚本善子(塚本虎二の妹)
参考文献
モアブ婦人会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/12 00:16 UTC 版)
1907年(明治40年)11月には一家で淀橋町内の角筈から、柏木に転居した。柏木で長女ルツ子が女学校を卒業した直後の1911年に原因不明の病に倒れた。静子の不眠不休の看病にもかかわらず、1912年(明治45年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。ルツ子の死は静子と夫鑑三を大変悲しませたが、ルツ子の闘病を通して静子の信仰は強まった。 ルツ子の死後、1913年(大正2年)1月12日の召命記念日に、聖書研究会の会員の夫人や姉妹など内村家にゆかりのある婦人が集まり、鑑三の主唱でモアブ婦人会が結成された。静子はモアブ会の会長として、会を終生リードした。 1917年(大正6年)実家の母好子と透が死去する。実家の両親の元に預けられていた、た弟の八雲の遺児の八郎と花枝を引き取る。岡田家を整理して得た資金で内村家の東南側に室を建てて住まわせた。 1923年(大正12年)9月1日、夫の不在中に柏木で関東大震災に被災するが、静子ら留守中の家族は無事で、家の被害はわずかだった。1924年11月に長男祐之が美代子と結婚する。 1927年(昭和2年)9月息子祐之が北海道大学医学部教授に就任すると、夫鑑三が単身で北海道に渡る。翌年、1928年(昭和3年)に静子も女中を伴って7月から9月まで滞在する。1930年(昭和5年)3月28日に長男祐之夫妻と共に柏木の自宅で夫の臨終を見守った。夫の死後静子は大病を患い入院する。
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