車両ハシケ建造の経緯
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1905年(明治38年)8月1日、北海道鉄道の小樽 -南小樽間開通をもって北海道内の鉄道は函館から小樽、札幌を経由して名寄までつながり、函館は北海道の鉄道の玄関口となった。1906年(明治39年)3月30日公布の鉄道国有法のもと、同年10月1日には北海道炭礦鉄道が、翌1907年(明治40年)7月1日には北海道鉄道が国有化され、本州側では、上野-青森間を含む多くの線区を経営していた日本鉄道が1906年(明治39年)11月1日、国有化された。その日本鉄道による直営青函連絡船航路開設のための2隻の海峡渡船 比羅夫丸・田村丸建造事業も同日、逓信省鉄道作業局に継承され、1908年(明治41年)3月7日には国営の帝国鉄道庁青函連絡船航路として開設された。これにより、本州の北の玄関口青森から北海道の玄関口函館に至る青函航路は両岸の鉄道と経営統合され、以後、北海道内の開拓の進展と鉄道網の拡充により、同航路の客貨輸送量は急激に増加し、たちまち上記2隻では運びきれなくなり、鉄道院 は1910年(明治43年)1月25日のうめが香丸傭船を嚆矢に、多数の一般型船舶を傭船してこれに対応した。 この道内鉄道網の拡充は、そこで使用される機関車、客車、貨車の需要増をもたらしたが、その多くは、本州で新造、あるいは本州からの転属で調達されており、全て一般海運で運ばれ、船積み前の解体、荷造り、陸揚げ後の再組立て、試運転等で多くの経費と日数を費やしていた。しかし、当時の青函連絡船は全て一般型船舶で運航され、青森・函館両港共貨物は全てハシケ荷役で、鉄道車両をそのまま運ぶ車両航送は行われていなかった。 同時期の1911年(明治44年)10月1日、一民間業者である宮本組の発案により、木造の貨車ハシケを用いた日本初の貨車航送航路が、関門航路の貨物航路として下関 – 小森江間に開設された。この航路は関森航路と呼ばれ、鉄道院からの請負で宮本組が運航したが、その有用性と確実性を目の当たりにした鉄道院は、北海道向け新造・転属車両の海上輸送時の車両の解体・再組立等の不便を、このハシケによる車両航送導入で解消できると考え、函館船渠に建造を発注したのが車運丸であった。しかし外海に面した津軽海峡を航行するには高い堪航性能が求められるため、鋼製の大型車両ハシケとなり、1914年(大正3年)12月10日就航した。
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