十勝丸・渡島丸建造の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 06:38 UTC 版)
「石狩丸 (初代)」の記事における「十勝丸・渡島丸建造の経緯」の解説
1945年(昭和20年)7月14日と翌15日の空襲で、青函航路の貨車輸送の主力である車両渡船もその多くを喪失し、終戦時稼働できたのは第七青函丸と第八青函丸の2隻だけで、ともに「船体3年、エンジン1年」といわれた劣悪な船質のW型戦時標準船であった。その後、続行船の就航はあったものの、船質の劣悪さに変わりはなく、依然船腹不足で、それらを整備不良のまま酷使せざるを得ず、事故や故障が頻発し、稼働率は低迷を極める、という悪循環で、一向に貨車航送能力は回復しなかった。しかし、これは、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月、GHQ は青函航路用として車載客船4隻、車両渡船4隻の建造を許可した。そのうちの2隻の車両渡船が十勝丸と渡島丸で、H型戦時標準船の基本設計をほぼそのまま引き継ぎ、同じ三菱重工横浜造船所で建造された。
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