北見丸・日高丸建造の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 01:56 UTC 版)
戦時中より建造中であった、車両渡船 第十二青函丸 、石狩丸(初代)を含む、いわゆる“続行船”の竣工後をにらみ、日本政府がGHQに出していた大量の新造船建造申請は、1946年(昭和21年)1月、ことごとく却下された。しかし、戦災で著しく落ち込んだまま一向に回復しない青函航路の貨車航送能力は、北海道に進駐するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月に至り、青函連絡船では、 車載客船4隻、車両渡船4隻の建造計画が許可された。 この車両渡船4隻のうち、2隻がW型戦時標準船の基本設計をほぼそのまま引き継ぎ、戦時中からW型戦時標準船を連続建造していた浦賀船渠で建造された。この2隻が北見丸と日高丸(初代)であった。残りの2隻は、同様にH型戦時標準船の基本設計を引き継ぎ、やはりH型戦時標準船の建造を手がけた三菱重工 横浜造船所で建造された十勝丸(初代)と渡島丸(初代)であった。
※この「北見丸・日高丸建造の経緯」の解説は、「北見丸」の解説の一部です。
「北見丸・日高丸建造の経緯」を含む「北見丸」の記事については、「北見丸」の概要を参照ください。
- 北見丸・日高丸建造の経緯のページへのリンク