北見丸廃棄と日高丸修復工事
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「北見丸」の記事における「北見丸廃棄と日高丸修復工事」の解説
1954年(昭和29年)10月に行われた沈没した青函連絡船の潜水調査では、北見丸、日高丸(初代)はともに浮揚後修復再使用の見込みであった。しかし、北見丸は沈没位置の水深が53mと深く、浮揚工事は当初予定より約1年遅れて、1956年(昭和31年)8月1日主船体引き揚げ完了、8月16日には浮揚工事は完全に終了した。しかし船体損傷甚大で修復工事は断念された。 一方、日高丸(初代)は1955年(昭和30年)7月30日には引き揚げ完了し、8月26日函館ドックへ入り、修復工事に着手した。 車両甲板より上は喪失しており、喪失部分は全くの新造となった。車両甲板は檜山丸型にならい、レールを薄い鋼板を介して車両甲板に溶接することで枕木を廃し、その分、軌道面を下げて車両甲板から船橋楼甲板までの高さを従来より20cm低い4.8mとした。さらに甲板室も、従来遊歩甲板にあった高級船員室の一部を船橋楼甲板へ下げ、重心の低下を図ったが、無線通信室は日高丸(初代)では従来通り、操舵室との連携を考慮し、航海船橋操舵室後ろに隣接配置した。また従来、車両甲板外舷上部にあった通風採光用の開口部は廃止され、船橋楼甲板船尾両舷の救命艇ボートダビットには、ブレーキを外すだけで救命艇が自重で舷外に振り出される重力型ボートダビットが採用された。 船体を横方向に区切る隔壁は、従来は船底から車両甲板までであった船首隔壁を船橋楼甲板まで延ばし、車両甲板下の水密区画も、前後長最大のボイラー室を前後に分割する水密隔壁を1枚増設して、水密隔壁9枚、水密区画10区画とした。従来から、ボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の間の3枚の水密隔壁には交通用の開口が設けられており、非常時にはこれらを閉鎖する手動式水密辷戸(すべりど)が設置されていたが、増設された前後部ボイラー室間の水密隔壁にも水密辷戸が設置され、計4ヵ所となった。この開閉を手動式から操舵室からも遠隔操作で開閉可能な電動式に改められたが、1955年(昭和30年)5月11日に発生した紫雲丸事件を受け、機械室の前後(後部ボイラー室と車軸室)の隔壁には発電機停止による交流電源喪失時にも、蓄電池で駆動できる直流電動機直接駆動方式水密辷戸が設置され、残る2ヵ所は檜山丸型と同じ交流電動機直接駆動方式水密辷戸が設置された。 車両甲板面の水密性向上のため、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居の高さを61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製の防水蓋や防水扉を設置し、車両甲板から機関室への通風口も閉鎖して電動通風とし、発電機も250kVA 2台に増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段に設置した。車両甲板船尾側面には放水口が設置され、船尾扉はなく、入渠甲板も設置されなかった。 同時期、ほぼ同様の修復工事を受けた十勝丸(初代)と同じく、操舵室を含む甲板室前面は各層とも前方に丸みを持たせ、一層ごと後退する形とし、船体塗装でも外舷上部も白く塗装されたため、檜山丸型を4本煙突にしたような印象となった。車両積載数はワム46両のままで、1956年(昭和31年)4月1日 再就航した。なお、船尾損傷の激しかった十勝丸(初代)では2枚舵で修復されたが、日高丸では1枚舵のままで、汽動式の操舵機が引き続き使用された。日高丸(初代)は十勝丸(初代)とともに、津軽丸型7隻就航後の、青函連絡船最盛期まで運航され、1969年(昭和44年)9月20日終航となった。
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