渡島丸型第4船以降の建造の経緯
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洞爺丸事件後建造された車両渡船空知丸(初代)、檜山丸(初代)、石狩丸(2代)の3隻も、1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックの頃には、船齢20年に近づきつつあった。一方、青函トンネルは1971年(昭和46年)11月に本坑の掘削が着工されており、開通見込みは、その当時1978年(昭和53年)度とされていた。トンネル開通後の青函連絡船の存廃は未定であったが、いずれにせよ、それまでは、青函連絡船として客貨輸送を全うしなければならず、これら3隻を時期不明確なトンネル開通時まで運航し続けることは非現実的であった。そして当時の関係者の多くは、1971年(昭和46年)以降の貨物輸送量減少は一時的なもので、輸送需要回復時には速やかにこれに対応できる体制を整えておくべき、と考え、渡島丸型全6隻就航の暁には、函館第2岸壁にも渡島丸型を発着させ、上り3本、下り4本の3時間45分運航便、函館3回、青森10回の50分折り返しを含む、12隻30往復、1隻2往復の計32往復運航実現に向けた検討に入っていた。 1974年(昭和49年)5月21日に空知丸(初代)、檜山丸(初代)、石狩丸(2代)の3隻の代替船建造が運輸大臣に申請され、1974年(昭和49年)7月31日に函館ドックへ、1974年(昭和49年)8月30日に三菱重工へ、そして1975年(昭和50年)8月26日に日立造船へ、各代替船の建造が発注された。
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