渡島丸型車両渡船 第1船から第3船までの建造の経緯
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1954年(昭和29年)9月の洞爺丸台風で5隻の連絡船を失った青函航路であったが、1957年(昭和32年)10月の車載客船十和田丸(初代)就航を以て、船腹数回復を果たした。その翌年の1958年(昭和33年)度の貨物輸送量は、なべ底景気の影響もあり、439万トン に留まったが、その後ほどなく岩戸景気と呼ばれた好景気に戻り、貨物輸送量の増加は著しく、1961年(昭和36年)度には521万トンに達していた。 国鉄は、この増大する貨物需要への対応と、終戦前後に建造された船質の良くない戦時標準船ならびに、それに準じる船を取り替える方針を打ち出し、その方法を検討するため「青函連絡船取替等計画委員会」を1961年(昭和36年)1月に設置した。その第2次報告が1963年(昭和38年)8月に出され、その内容は、1,200名の旅客とワム換算48両を積載し、青森 - 函館間を1日2.5往復可能な高速客載車両渡船津軽丸型 6隻を1965年(昭和40年)度までに順次就航させ、老朽化の進んだ3隻の客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸、3隻の車載客船 大雪丸(初代)、摩周丸(初代)、羊蹄丸(初代)、3隻の車両渡船 第十二青函丸、石狩丸(初代)、渡島丸(初代)の計9隻を廃船にするというものであった。この報告に沿い、1964年(昭和39年)5月から1965年(昭和40年)8月にかけ、津軽丸型6隻が順次就航し、これら老朽船9隻も1965年(昭和40年)9月末までに全船引退した。 しかしその後の輸送需要の伸びは、客貨ともこの1963年(昭和38年)8月時点の予測を大きく上回り、国鉄は1965年(昭和40年)10月22日、さらに津軽丸型1隻の追加建造を決め、翌1966年(昭和41年)11月には、この第7船十和田丸(2代)を就航させた。これにより、当時は未だ陸上設備改良待ちではあったが、津軽丸型1隻入渠中も、残る6隻での15往復運航可能な隻数は確保され、船脚の遅い車載客船 十和田丸(初代)は余剰となった。このため十和田丸(初代)を石狩丸(2代)と改称のうえ、不足する貨車航送能力増強のため車両渡船に改造し、1967年(昭和42年)5月に再就航させた。この年度の貨物輸送量は695万トン に達していた。 洞爺丸台風で沈没し、浮揚後車両甲板より上を新造するという大規模な修復工事を受け、復帰していた石炭焚き蒸気タービンの車両渡船 日高丸(初代)、十勝丸(初代)の2隻は、まだこの時期運航されていたが、既に船齢20年に近づいていた。このため、国鉄では、これらの代替と、青函航路の逼迫した貨車航送能力増強のため、津軽丸型同様1日2.5往復可能で、ワム換算55両積載可能な高速車両渡船2隻の建造を1967年(昭和42年)11月28日決定し、1968年(昭和43年)5月24日、函館ドックと三菱重工にその建造を発注した。しかしその後も貨物需要の増加は著しく、1968年(昭和43年)10月8日には、さらに1隻の追加建造を決定し、1969年(昭和44年)5月15日、日立造船にその建造を発注した。これら3隻は、いずれも2代目となる渡島丸、日高丸、十勝丸と命名され、1969年(昭和44年)10月から翌1970年(昭和45年)6月にかけ、順次就航した。これにより、最後の2隻となった蒸気タービン船も1970年(昭和45年)3月末までに退役した。
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