車載客船建造の経緯とは? わかりやすく解説

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車載客船建造の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 07:19 UTC 版)

摩周丸 (初代)」の記事における「車載客船建造の経緯」の解説

1945年昭和20年7月14日アメリカ軍空襲で、青函連絡船一時壊滅し8月15日終戦時稼働できたのは、第七青函丸第八青函丸と、船舶運営会から傭船した大阪商船樺太丸(旧関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン)の3隻だけであった。しかし、終戦後青函航路には多く旅客貨物押し寄せたため、関釜航路景福丸(3,620.60総トン)、同航路貨物船壱岐丸(2代)(3,519.48総トン)、稚泊航路宗谷丸(3,593.16総トン)をはじめ、多く商船機帆船旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱対応し1947年昭和22年9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船昌慶丸 (3,620.60総トン)を浮揚修理して就航させた。また終戦後博多 - 釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船徳寿丸 (3,619.66総トン)も青函航路へ助勤させていた。 このような状況下、1946年昭和21年9月までに、当時就航中あるいは建造であった車両渡船 第八青函丸第十一青函丸第十二青函丸石狩丸(初代)船橋楼甲板旅客用甲板室造設して客載車両渡船(デッキハウス船)とし、旅客輸送増強図ったが、いずれも進駐軍専用船」に指定されてしまい、一般旅客利用禁止されてしまった。また当時車両渡船は、新造船も含め全て戦時標準船劣悪な船質のうえ、船腹不足のため十分な補修もされず酷使され続け故障事故頻発し一向に貨車航送能力回復しなかった。 このことが、北海道進駐するアメリカ軍自身物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年昭和21年7月運輸省鉄道総局GHQから、青函航路用として、車載客船4隻、車両渡船4隻の計8隻の建造許可取り付けることに成功した。この車載客船4隻が洞爺丸型で、摩周丸はその第3であった摩周丸1946年昭和21年12月3日浦賀船渠起工1948年昭和23年7月31日竣工同年8月27日青函航路就航した

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車載客船建造の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 00:43 UTC 版)

羊蹄丸 (初代)」の記事における「車載客船建造の経緯」の解説

1945年昭和20年7月1415両日アメリカ軍空襲で、青函連絡船一時壊滅し8月15日終戦時稼働できたのは、第七青函丸第八青函丸と、船舶運営会から傭船した大阪商船樺太丸(旧関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン)の3隻だけであった。しかし、終戦後青函航路には多く旅客貨物押し寄せたため、関釜航路景福丸 (3,620.60総トン)、同航路貨物船壱岐丸(2代) (3,519.48総トン)、稚泊航路宗谷丸 (3,593.16総トン)をはじめ、多く商船機帆船旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱対応し1947年昭和22年9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船昌慶丸 (3,620.60総トン)を浮揚修理して就航させた。また終戦後博多釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船徳寿丸 (3,619.66総トン)も青函航路へ助勤させていた。 このような状況下、1946年昭和21年9月までに、当時就航中あるいは建造であった車両渡船 第八青函丸第十一青函丸第十二青函丸石狩丸(初代)船橋楼甲板旅客用甲板室造設して客載車両渡船(デッキハウス船)とし、旅客輸送増強図ったが、いずれも進駐軍専用船」に指定され一般旅客利用禁止されてしまった。また当時車両渡船は、新造船も含め全て戦時標準船劣悪な船質のうえ、船腹不足のため十分な補修もされず酷使され続けたため、故障事故頻発し一向に貨車航送能力回復しなかった。 このことが、北海道進駐するアメリカ軍自身物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年昭和21年7月運輸省鉄道総局GHQより、青函航路用として、車載客船4隻、車両渡船4隻の計8隻の建造許可取り付けることに成功した。この車載客船4隻が洞爺丸型で、うち羊蹄丸を含む3隻が三菱重工神戸造船所建造された。 第1船の洞爺丸は、建造許可受けたわずか2ヵ月後の1946年昭和21年9月17日三菱重工神戸造船所起工され、その約2ヵ月後の11月7日には第2船 羊蹄丸が同造船所起工された。翌1947年昭和22年3月26日洞爺丸進水当日、第4船 大雪丸が同造船所起工されたため、この日から、洞爺丸竣工同年11月2日までは、同造船所では洞爺丸型が3隻、並行して建造されていた。

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