車載客船建造までの経緯
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宇高航路の客貨輸送量は、昭和恐慌を脱した1935年(昭和10年)には3月と11月に高徳・土讃両線の開通もあり、この頃から増加傾向が著明となった。当時、旅客輸送には 山陽丸・南海丸の姉妹客船(ともに561総トン 旅客定員1,057名)と水島丸(337総トン 旅客定員493名)の3隻が、貨車航送には、300総トン級でワム換算10両積載の車両渡船第一宇高丸・第二宇高丸の2隻があたっていた。しかし、この体制では急増する輸送需要に早晩対応できなくなると予測されたため、1936年(昭和11年)、鉄道省は青函航路に準じた大型の車両航送システム導入を決定し、1942年(昭和17年)の開業を目指して、石炭焚き蒸気タービン車載客船3隻の建造を播磨造船所に発注するとともに、1939年(昭和14年)10月からは宇野・高松両港での水陸連絡設備の建設工事にも着手していたが、戦争のためやむなく中断していた。 このため、1942年(昭和17年)7月の関門トンネル開通で廃止となった関森航路の自航式貨車渡船 第一〜五関門丸を、同年9月から順次転属させ、宇野・高松両港に関門丸用専用岸壁を急造し、同年10月8日より貨車航送に参加させ、応急対応とした。 宇高航路では、戦時中の船舶喪失はなかったが、酷使による各船の疲弊は甚だしく、戦後の混乱期の急激な輸送需要増大を、機帆船傭船や、第一宇高丸・第二宇高丸の車両甲板への旅客の満載などでしのいでいた。 1946年(昭和21年)7月には、運輸省鉄道総局はGHQから、1,400総トン級の車載客船3隻の建造許可取り付けに成功し、ここに中断していた大型車両航送システム導入計画が復活した。この3隻は当初ディーゼル船として設計されたが、当時の重油確保の困難さから戦前の設計通りの石炭焚き蒸気タービン船となり、同年8月16日には早くも第1船が相生の播磨造船所で起工され、続く2隻も順次同造船所で建造された。これらは、1947年(昭和22年)7月から1948年(昭和23年)6月にかけて就航したが、対応する大型可動橋などの水陸連絡設備完成を待って、1949年(昭和24年)3月から車両航送を開始した。これら3隻の第1船が高松市内の山の名から「紫雲丸」と命名されたため、3隻は「紫雲丸型」と呼ばれた。 この大型車両航送航送システム導入に伴い、関門丸型は再び関門海峡へ戻ったが、第一宇高丸・第二宇高丸はその後も長らく使用された。
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車載客船建造までの経緯
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1908年(明治41年)3月の帝国鉄道庁による国営青函航路開設当初は、先発の日本郵船と2社競合であったが、1910年(明治43年)3月の日本郵船撤退以降、帝国鉄道庁改め鉄道院青函航路の貨物輸送量増加は著しく、1910年(明治43年)度の7万2625トンから、4年後の1914年(大正3年)度には15万4716トンへと倍増していた。1910年(明治43年)1月には義勇艦うめが香丸(3,022総トン)を傭船し、同船解傭の1911年(明治44年)1月には、その後継として会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を傭船し、比羅夫丸型2隻と合わせ、3隻体制を維持した。さらに、阪鶴鉄道が発注し、同鉄道国有化後の1908年(明治41年)6月竣工後は山陰沿岸を行く舞鶴 - 境 間航路で運航された第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年(明治45年)3月の同航路廃止後、関釜航路での使用を経て、同年6月青函航路へ転入させ4隻目とし、同船転出の1914年(大正3年)7月からは、万成源丸(886.94総トン)を傭船して4隻体制維持し、増加する貨物輸送に対応した。 しかし、1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦 勃発は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移をもたらし、鉄道連絡船航路である青函航路の貨物輸送量も、1916年(大正5年)度からの増加はそれ以前にも増して著しく、翌1917年(大正6年)度には36万1259トンと、3年間で2.3倍にも達し、同年以降滞貨の山を造る混乱状態に陥ってしまった。一方旅客輸送人員も、1910年(明治43年)度の22万3524名、1914年(大正3年)度の28万8964名から、1917年(大正6年)度には49万4827名へと急増し、 客貨双方の抜本的な増強策が求められた。 これより前、同様に貨物輸送量の増加著しい関門航路では、同航路の荷物輸送を一手に請負っていた宮本組の宮本高次の発案により、木造の貨車ハシケを用いた日本初の貨車航送が、1911年(明治44年)10月1日、下関 – 小森江間で開始された。この航路は関森航路と通称され、鉄道院からの請負で宮本組により運航されたが、その有用性と確実性を目の当たりにした鉄道院は、1913年(大正2年)6月1日、これを買収、直営化した。さらに1919年(大正8年)8月1日からは自航式貨車渡船第一関門丸・第二関門丸も就航させ、貨車ハシケと併用していた。 この貨車航送の実績が良好であったことから、鉄道院運輸局船舶課は、1918年(大正7年)これら貨車ハシケを自航式とし、15トン積みワム型有蓋貨車16両積載と大型化したうえ、比羅夫丸型を上回る685名の旅客も乗船できる車載客船とし、これを青函航路へ投入して、一挙に客貨輸送力不足を解消しよう、という画期的な改革案を立案した。 貨車航送、あるいは貨車以外の車両も含む車両航送では、岸壁停泊中、陸上軌道と接続した船内軌道へ、あるいは船内軌道から、貨物や荷物を積載した車両を、そのまま機関車で押し込んだり引き出したりして積卸しするため、荷役時間の大幅短縮による貨物・荷物の速達性向上、連絡船折り返し時間短縮による船と岸壁の稼働率向上、積替え不要による貨物・荷物の損傷や紛失の激減などの利点があった。しかし、車両積載場所が船艙ではなく車両甲板上に限られるため、重心が高くなり、同じ重量の貨物を積載するにはより大型の船を必要とし、その構造も複雑で建造費も増大し、さらに岸壁には車両を安全に積卸しするための専用の設備を要し、他航路への転用も制限される、などの問題点もあった。 当初は鉄道院内でも反対論が多かったが、国鉄全車両の自動連結器化が1925年(大正14年)に実施されることになり、青森港第1期修築工事も1924年(大正13年)には竣工することとなったため、この機会に全国規模の貨車直通運用を開始すべき、として1919年(大正8年)、この車載客船による車両航送案は採用された。さらに1920年(大正9年)9月決定の最終要求条件では、郵便手小荷物車積載可能な中線を含む船内軌道3線となり、旅客定員も940名とされ、当初案よりかなり大型化していた。当時、日本にはこのような大型の車載客船建造運航の経験がなかったため、鉄道院改め鉄道省 は、1909年(明治42年)開設のバルト海を行く ドイツ ザスニッツとスウェーデン トレレボリ間航路(58海里)の3,000総トン級車載客船ドロットニング・ヴィクトリア号などを手本として設計し、1921年(大正10年)12月に浦賀船渠へ2隻、翌1922年(大正11年)12月には三菱造船長崎造船所へさらに2隻の建造を発注した。
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車載客船建造までの経緯
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「大雪丸 (初代)」の記事における「車載客船建造までの経緯」の解説
1945年(昭和20年)7月14・15両日のアメリカ軍の空襲で、青函連絡船は翔鳳丸型車載客船4隻を含む、全12隻が一時稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較的損傷が軽く、短期間で復帰できた第七青函丸、第八青函丸の2隻の車両渡船と、船舶運営会から傭船した稚斗連絡船 樺太丸(元関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン 当時の船主は大阪商船)のみであった。しかし終戦直後、多くの引揚げ者や復員者、徴用解除の帰郷者、朝鮮半島や中国大陸への帰還者、さらには食糧買い出しの人々が青函航路に殺到し、貨物は減少したものの、当時、本州と北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物や石炭輸送の継続も迫られていた。このため、関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)、同連絡船の貨物船 壱岐丸(2代)(3,519.48総トン)、稚泊連絡船 宗谷丸(3,593.16総トン)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し、1947年(昭和22年)9月からは、空襲により京都府下宮津湾に擱坐していた関釜連絡船 昌慶丸(3,620.60総トン)を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多 - 釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船 徳寿丸(3,619.66総トン)も青函航路へ助勤させていた。 しかし、終戦後、生き残った2隻の車両渡船は、まず第七青函丸が 1945年(昭和20年)8月30日、函館港北防波堤に衝突して入渠休航となり、その復帰した同年11月28日に、今度は第八青函丸が青森第1岸壁で、ヒーリング操作不調でその場に沈座してしまい、長期の休航となってしまった。この間、終戦時にはほぼ完成していた第十一青函丸が、1945年(昭和20年)10月9日就航したものの、貨車航送能力不足は歴然としていた。 これに不満を持った進駐軍は、1945年(昭和20年)12月24日、貸与したLST(戦車揚陸艦)を車両渡船に改造するよう命令し、1946年(昭和21年)3月31日から2隻のLST改造車両渡船による貨車航送が開始された。しかし期待通りの結果は得られず、青函航路の貨車航送能力は低迷したままで、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなった。 車載客船全4隻喪失による旅客輸送力不足も深刻で、多くの傭船や他航路の連絡船を使用していたが、青森桟橋で沈座し、修復中であった第八青函丸では、旅客輸送力増強への即応対策として、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に木造の旅客用甲板室を造設し、客載車両渡船(デッキハウス船)として1946年(昭和21年)5月、復帰した。また当時建造中であった第十二青函丸と石狩丸(初代)では、鋼製の同様の甲板室を造設し、同年5月と7月に就航し、既に就航中であった第十一青函丸では同年9月に、第七青函丸では1947年(昭和22年)9月に、それぞれ同様の鋼製甲板室が造設された。さらに1947年(昭和22年)1月には、空襲で野内沖に擱座していた第六青函丸でも、修復工事の際、鋼製甲板室が造設された。しかし、第七青函丸以外は指定期間に長短はあったものの「進駐軍専用船」に指定されてしまい、日本人旅客の利用はできなくなってしまった。また当時の車両渡船は、新造船も含め、全て戦時標準船で劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障や事故が頻発し、貨車航送能力は一向に回復しなかった。 このため、それまでは新造船の新規着工を許可しなかったGHQが、1946年(昭和21年)7月に至り、運輸省鉄道総局の建造申請に対し、青函航路用として車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻という大量の連絡船建造の許可を出した。この車載客船の第4船が大雪丸であった。 大雪丸は、第1船の洞爺丸が三菱重工神戸造船所で進水した当日の 1947年(昭和22年)3月26日、同造船所で起工され、翌1948年(昭和23年)10月25日竣工し、同11月27日、青函航路に就航した。
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