車載客船建造までの経緯とは? わかりやすく解説

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車載客船建造までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 01:47 UTC 版)

紫雲丸」の記事における「車載客船建造までの経緯」の解説

宇高航路の客貨輸送量は、昭和恐慌脱した1935年昭和10年)には3月11月高徳・土讃両線の開通もあり、この頃から増加傾向著明となった当時旅客輸送には 山陽丸南海丸姉妹客船(ともに561総トン 旅客定員1,057名)と水島丸337総トン 旅客定員493名)の3隻が、貨車航送には、300総トン級でワム換算10積載車両渡船第一宇高丸第二宇高丸の2隻があたっていた。しかし、この体制では急増する輸送需要早晩対応できなくなると予測されたため、1936年昭和11年)、鉄道省青函航路準じた大型車両航送システム導入決定し1942年昭和17年)の開業目指して、石炭焚き蒸気タービン車載客船3隻の建造播磨造船所発注するとともに1939年昭和14年10月からは宇野高松両港での水陸連絡設備建設工事にも着手していたが、戦争のためやむなく中断していた。 このため1942年昭和17年7月関門トンネル開通廃止となった関森航路の自航式貨車渡船 第一五関門丸を、同年9月から順次転属させ、宇野高松両港に関門丸用専用岸壁急造し、同年10月8日より貨車航送参加させ、応急対応とした。 宇高航路では、戦時中船舶喪失はなかったが、酷使による各船の疲弊甚だしく戦後の混乱期急激な輸送需要増大を、機帆船傭船や、第一宇高丸第二宇高丸車両甲板への旅客満載などでしのいでいた。 1946年昭和21年7月には、運輸省鉄道総局GHQから、1,400総トン級の車載客船3隻の建造許可取り付け成功し、ここに中断していた大型車両航送システム導入計画復活した。この3隻は当初ディーゼル船として設計されたが、当時重油確保困難さから戦前設計通り石炭焚き蒸気タービン船となり、同年8月16日には早くも第1船が相生播磨造船所起工され、続く2隻も順次造船所建造された。これらは、1947年昭和22年7月から1948年昭和23年6月にかけて就航したが、対応する大型可動橋などの水陸連絡設備完成待って1949年昭和24年3月から車両航送開始した。これら3隻の第1船が高松市内の山の名から「紫雲丸」と命名されたため、3隻は「紫雲丸型」と呼ばれた。 この大型車両航送航送システム導入に伴い関門丸型は再び関門海峡戻ったが、第一宇高丸第二宇高丸その後長らく使用された。

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車載客船建造までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:51 UTC 版)

翔鳳丸」の記事における「車載客船建造までの経緯」の解説

1908年明治41年3月帝国鉄道庁による国営青函航路開設当初は、先発日本郵船と2社競合であったが、1910年明治43年3月日本郵船撤退以降帝国鉄道庁改め鉄道院青函航路貨物輸送増加著しく1910年明治43年)度の72625トンから、4年後の1914年大正3年)度には154716トンへと倍増していた。1910年明治43年1月には義勇うめが香丸(3,022総トン)を傭船し、同船解傭1911年明治44年1月には、その後継として会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を傭船し、比羅夫丸型2隻と合わせ、3隻体制維持した。さらに、阪鶴鉄道発注し、同鉄道国有化後1908年明治41年6月竣工後は山陰沿岸を行く舞鶴 - 境 間航路運航され第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年明治45年3月の同航路廃止後関釜航路での使用経て同年6月青函航路転入させ4隻目とし、同船転出1914年大正3年7月からは、万成源丸(886.94総トン)を傭船して4隻体制維持し増加する貨物輸送対応した。 しかし、1914年大正3年7月第一次世界大戦 勃発は、その後大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物鉄道への転移もたらし鉄道連絡船航路である青函航路貨物輸送量も、1916年大正5年)度からの増加それ以前にも増して著しく、翌1917年大正6年)度には361259トンと、3年間で2.3倍にも達し同年以降滞貨の山を造る混乱状態に陥ってしまった。一方旅客輸送人員も、1910年明治43年)度の223524名、1914年大正3年)度の288964名から、1917年大正6年)度には494827名へと急増し、 客貨双方抜本的な増強策が求められた。 これより前、同様に貨物輸送量の増加著し関門航路では、同航路荷物輸送一手請負っていた宮本組宮本高次発案により、木造貨車ハシケ用いた日本初貨車航送が、1911年明治44年10月1日下関小森江間で開始された。この航路関森航路通称され、鉄道院からの請負宮本組により運航されたが、その有用性確実性目の当たりにした鉄道院は、1913年大正2年6月1日、これを買収直営化した。さらに1919年大正8年8月1日からは自航式貨車渡船第一関門丸第二関門丸就航させ、貨車ハシケ併用していた。 この貨車航送実績良好であったことから、鉄道院運輸局船舶課は、1918年大正7年)これら貨車ハシケを自航式とし、15トン積みワム有蓋貨車16積載大型化したうえ、比羅夫丸型を上回る685名の旅客乗船できる車載客船とし、これを青函航路投入して一挙に客貨輸送力不足を解消しよう、という画期的な改革案を立案した貨車航送、あるいは貨車以外の車両も含む車両航送では、岸壁停泊中、陸上軌道接続した船内軌道へ、あるいは船内軌道から、貨物荷物積載した車両を、そのまま機関車押し込んだ引き出したりして積卸しするため、荷役時間大幅短縮による貨物・荷物速達性向上、連絡船折り返し時間短縮による船と岸壁稼働率向上、積替え不要による貨物・荷物損傷紛失激減などの利点があった。しかし、車両積載場所が船艙ではなく車両甲板上に限られるため、重心高くなり、同じ重量貨物積載するにはより大型の船を必要とし、その構造も複雑で建造費も増大し、さらに岸壁には車両安全に積卸しするための専用設備要し、他航路への転用制限される、などの問題点もあった。 当初鉄道院内でも反対論多かったが、国鉄全車両の自動連結器化が1925年大正14年)に実施されることになり、青森港第1期修築工事1924年大正13年)には竣工することとなったため、この機会全国規模貨車直通運用開始すべき、として1919年大正8年)、この車載客船による車両航送案は採用された。さらに1920年大正9年9月決定最終要求条件では、郵便手小荷物積載可能な中線を含む船内軌道3線となり、旅客定員940名とされ、当初案よりかなり大型化していた。当時日本にはこのような大型車載客船建造運航経験がなかったため、鉄道院改め鉄道省 は、1909年明治42年開設バルト海を行く ドイツ ザスニッツスウェーデン トレレボリ間航路58海里)の3,000総トン車載客船ドロットニング・ヴィクトリア号などを手本として設計し1921年大正10年12月浦賀船渠へ2隻、翌1922年大正11年12月には三菱造船長崎造船所へさらに2隻の建造発注した

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車載客船建造までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 08:15 UTC 版)

大雪丸 (初代)」の記事における「車載客船建造までの経緯」の解説

1945年昭和20年7月1415両日アメリカ軍空襲で、青函連絡船翔鳳丸車載客船4隻を含む、全12隻が一時稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較損傷軽く短期間復帰できた第七青函丸第八青函丸の2隻の車両渡船と、船舶運営会から傭船した稚斗連絡船 樺太丸(元関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン 当時船主大阪商船)のみであった。しかし終戦直後多く引揚げ者復員者、徴用解除帰郷者、朝鮮半島中国大陸への帰還者さらには食糧買い出し人々青函航路殺到し貨物減少したものの、当時本州北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物石炭輸送継続迫られていた。このため関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)、同連絡船貨物船 壱岐丸(2代)(3,519.48総トン)、稚泊連絡船 宗谷丸(3,593.16総トン)をはじめ、多く商船機帆船旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱対応し1947年昭和22年9月からは、空襲により京都府下宮津湾に擱坐していた関釜連絡船 昌慶丸(3,620.60総トン)を浮揚修理して就航させた。また終戦後博多 - 釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船 徳寿丸(3,619.66総トン)も青函航路へ助勤させていた。 しかし、終戦後生き残った2隻の車両渡船は、まず第七青函丸1945年昭和20年8月30日函館港防波堤衝突して入渠休航となり、その復帰した同年11月28日に、今度第八青函丸青森第1岸壁で、ヒーリング操作不調その場に沈座してしまい、長期休航となってしまった。この間終戦時にはほぼ完成していた第十一青函丸が、1945年昭和20年10月9日就航したものの、貨車航送能力不足は歴然としていた。 これに不満を持った進駐軍は、1945年昭和20年12月24日貸与したLST戦車揚陸艦)を車両渡船改造するよう命令し1946年昭和21年3月31日から2隻のLST改造車両渡船による貨車航送開始された。しかし期待通り結果得られず、青函航路貨車航送能力低迷したままで、北海道駐留するアメリカ軍自身物資輸送にも支障をきたすところとなった車載客船全4隻喪失による旅客輸送力不足も深刻で、多く傭船や他航路連絡船使用していたが、青森桟橋で沈座し修復であった第八青函丸では、旅客輸送増強への即応対策として、船橋楼甲板の本来の甲板室前後木造旅客用甲板室造設し、客載車両渡船(デッキハウス船)として1946年昭和21年5月復帰した。また当時建造であった第十二青函丸石狩丸(初代)では、鋼製同様の甲板室造設し、同年5月7月就航し、既に就航中であった第十一青函丸では同年9月に、第七青函丸では1947年昭和22年9月に、それぞれ同様の鋼製甲板室造設された。さらに1947年昭和22年1月には、空襲野内沖に擱座していた第六青函丸でも、修復工事の際、鋼製甲板室造設された。しかし、第七青函丸以外は指定期間に長短はあったものの「進駐軍専用船」に指定されてしまい、日本人旅客利用はできなくなってしまった。また当時車両渡船は、新造船も含め全て戦時標準船劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障事故頻発し貨車航送能力一向に回復しなかった。 このためそれまで新造船の新規着工許可しなかったGHQが、1946年昭和21年7月至り運輸省鉄道総局建造申請対し青函航路用として車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻という大量連絡船建造許可出した。この車載客船の第4船が大雪丸であった大雪丸は、第1船の洞爺丸三菱重工神戸造船所進水した当日1947年昭和22年3月26日、同造船所起工され、翌1948年昭和23年10月25日竣工し、同11月27日青函航路就航した

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