十和田丸建造の経緯とは? わかりやすく解説

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十和田丸(2代目)建造の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 06:20 UTC 版)

十和田丸 (2代)」の記事における「十和田丸2代目)建造の経緯」の解説

津軽丸としての詳細津軽丸(2代)参照 津軽丸型6隻の建造計画は、国鉄内に設置された「青函連絡船取替委員会」が1963年昭和38年8月3日提出した第2次報告沿って進められたもので、戦中戦後の混乱期建造された船質の良くない連絡船代替と、青函航路輸送力増強目的に、1965年昭和40年)までに津軽丸型 6隻を建造し老朽船9隻を引退させるというものであった当時はこれで1969年昭和44年)の想定貨物輸送量(片道378トン上り実績418トン)までは対応可能と見込んでいたが、高度経済成長継続による北海道内消費水準の向上、農業・土木近代化に伴う化学肥料機械車両入り込みもあり、下り貨物輸送量1965年昭和40年)には300トン達し上り328トン)、積車数では下り上り上回る事態で、その伸び著しく早くも1966年昭和41年以降貨物輸送逼迫予想された。旅客輸送においても、折から北海道観光ブームでその増加著しく津軽丸型 6隻就航後の、1965年昭和40年10月1日ダイヤ改正からは、津軽丸3時50運航による部分的な1日2.5往復運航開始により、津軽丸型5隻12往復、うち9往復旅客扱い便、さらに車載客船十和田丸(初代)による4時30運航旅客便1往復もあり、旅客便合計10往復となり、それ以前の6往復から大増となった。しかし、十和田丸(初代)は、旅客定員は多いが船足遅く貨車航送能力ワム18両と少ないため、旅客便としても貨物便としても使いづらく、同ダイヤ改正以後1日1往復のみの運航となっていた。そこで十和田丸(初代)1966年昭和41年)秋でいったん係船し、それまでに客貨とも輸送能力の高い津軽丸型をもう1隻追加建造することが1965年昭和40年10月22日常務会決定され11月15日 その建造浦賀重工へ発注され、翌1966年昭和41年2月15日起工10月16日竣工した。これが2代目十和田丸であった。これにより津軽丸型は7隻となり、青森函館桟橋の第1岸壁、第2岸壁55折り返し運航が可能となった1968年昭和43年10月1日ダイヤ改正から、1隻入渠中も残り6隻での年中無休15往復運航始まりそのうち9~11往復旅客扱いが行われた。後年旅客扱い便は減少したが、6隻15往復体制1988年昭和63年3月13日の終航まで続けられた。

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