十和田丸建造までの経緯
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「十和田丸 (初代)」の記事における「十和田丸建造までの経緯」の解説
1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では、車載客船 洞爺丸、車両渡船 北見丸、同 日高丸(初代)、同 十勝丸(初代)、客載車両渡船 第十一青函丸の5隻が沈没した。これらのうち、洞爺丸は1955年(昭和30年)8月25日に浮揚作業を完了したものの、右舷側の損傷が甚だしく、復旧には多額の費用が必要と見込まれたため、国鉄はこれを断念し、1956年(昭和31年)11月10日、代替船の建造を新三菱重工神戸造船所に発注した。これが十和田丸(初代)であった。 洞爺丸事件の重大さに鑑み、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による「造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会」を、国鉄総裁は同年11月に同じく学識経験者による「青函連絡船設計委員会」を設置した。しかし翌1955年(昭和30年)5月11日には宇高航路でも紫雲丸事件が発生したため、後者は同年7月「日本国有鉄道連絡船設計委員会」と改称され、これら二つの審議会では、洞爺丸台風時の青函連絡船の沈没原因とその対策、ならびに第三宇高丸と衝突沈没した紫雲丸の事故原因と対策も審議検討され、答申が出されたが、前者は主として基本事項の審議を行い、後者がこれを受けて実際の設計に反映する役割分担であった。本船建造にあたっては、これら両事件から得られた対策が盛り込まれるところとなり、格段に安全性の高い船となった。 なお1955年(昭和30年)10月20日に出された上記「日本国有鉄道連絡船設計委員会」の第1回答申書で、沈没を免れた羊蹄丸(初代)・摩周丸(初代)・大雪丸(初代)の3隻を「羊蹄丸型」と呼称した。その後も国鉄内ではこの呼称が広く使われていたため、状況に応じ「洞爺丸型」のほか「羊蹄丸型」も使用する。
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