十和田信仰の衰退とは? わかりやすく解説

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十和田信仰の衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:44 UTC 版)

十和田神社」の記事における「十和田信仰の衰退」の解説

明治維新後に、十和田信仰神仏分離廃仏毀釈の嵐にさらされた。1872年明治5年)には、修験宗廃止され修験天台宗真言宗属するか、神職になるか還俗するかを命じられた。神仏習合による権現排斥され古事記日本書紀日本古来の神に戻すことが強要された。十和田別当織田氏は十湾寺を十和田神社として、青龍権現を外に移し祭神ヤマトタケル申し立てたが、認められず、1873年明治6年奥瀬新羅神社合祀され、御堂取り壊された。2年後復社許され御堂跡地ささやかな社殿建てられたが、十和田信仰大きな打撃受けた十和田湖その後十和田鉱山隆盛明治20年代)と、十和田湖観光時代迎える。そうした中、十和田神社神職織田氏奥瀬から休屋に居を移し十和田信仰保持務めた1905年和井内貞行十和田湖ヒメマス養殖苦労の末に成功させ、さらに和井内十和田湖観光先鞭をつける。この和井内顕彰するために、十和田信仰後進性がことさら強調された。高瀬強『天下奇勝十和田湖案内』(1910年明治43年)では、十和田湖魚類がいない理由として湖神青龍大権現責罰受けてがいないとする迷信的伝説語られ和井内千年旧慣破って魚の養殖試したところ、人々神霊冒涜恐れ数々迫害をなしたと記している。高瀬強『十和田開発偉人 和井内貞行翁』(1927年昭和2年)では田沢湖辰子姫の伝説語り、「一大迷信人心浸潤し、抜くべからざる錯誤生ずるに至った」、「大湖も、極端に神聖視され」とし、和井内初期失敗人々は「それ見ろ青龍権現神罰てきめんだ罵った」とされ、多少漁獲得てからは「彼らは翁の事業独占阻止せんとして悪辣な計画をなし」たと記している。その表現決定的なものになるのは、1928年昭和3年)の国定教科書農村高等小学読本』と思われる。そこには高瀬の本と同様な表現があった。「人のため世のため」(『青年修身公民普通科用』下巻1941年昭和16年))などでも同様な話が語られた。佐々木千之『十和田湖開発者和井内貞行』(三省堂1942年昭和17年)では会話形式多用した物語になっているが、この書の特徴は後の1967年昭和42年)のポプラ社世界伝記全集シリーズ26取り上げられ世代越えて影響及ぼした。その他多数書籍があるが、戦後ではそれが映画となって演出・表現された。『われ幻の魚見たり』(1950年昭和25年大映制作大河内傳次郎主演)では「ザイギ、ザイギ、六根清浄南無十和田青龍大権現…」と文言唱え参詣道行進する修験道人々映像の後に、人々禁忌犯した和井内家に罵声浴びせ、家に法螺貝鳴らしながら投石する映像流された。そのため、石が頭に当たり和井内貞行流血している。この映画では青龍権現信者たちは暴力用いて和井内貞行妨害をしようとする敵役として登場したこのように信仰十分に組織化されていない状態で、近世以降十和田信仰迷信であるという評価広がることで、十和田参拝徐々に確認されていかなくなっていったのではないか推測される

※この「十和田信仰の衰退」の解説は、「十和田神社」の解説の一部です。
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