十和田信仰の衰退
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明治維新後に、十和田信仰は神仏分離と廃仏毀釈の嵐にさらされた。1872年(明治5年)には、修験宗が廃止され、修験は天台宗か真言宗に属するか、神職になるか還俗するかを命じられた。神仏習合による権現は排斥され、古事記や日本書紀の日本古来の神に戻すことが強要された。十和田別当の織田氏は十湾寺を十和田神社として、青龍権現を外に移し、祭神をヤマトタケルと申し立てたが、認められず、1873年(明治6年)奥瀬の新羅神社に合祀され、御堂は取り壊された。2年後、復社を許され、御堂の跡地にささやかな社殿が建てられたが、十和田信仰は大きな打撃を受けた。十和田湖はその後、十和田鉱山の隆盛(明治20年代)と、十和田湖観光の時代を迎える。そうした中、十和田神社神職の織田氏は奥瀬から休屋に居を移し、十和田信仰の保持に務めた。 1905年、和井内貞行は十和田湖でヒメマスの養殖を苦労の末に成功させ、さらに和井内は十和田湖観光に先鞭をつける。この和井内を顕彰するために、十和田信仰の後進性がことさら強調された。高瀬強『天下之奇勝十和田湖案内』(1910年、明治43年)では、十和田湖に魚類がいない理由として湖神青龍大権現の責罰を受けて魚がいないとする迷信的伝説 が語られ、和井内が千年の旧慣を破って魚の養殖を試したところ、人々は神霊の冒涜を恐れ数々の迫害をなしたと記している。高瀬強『十和田開発の偉人 和井内貞行翁』(1927年、昭和2年)では田沢湖の辰子姫の伝説も語り、「一大迷信が人心に浸潤し、抜くべからざる錯誤を生ずるに至った」、「大湖も、極端に神聖視され」とし、和井内の初期の失敗に人々は「それ見ろ、青龍権現の神罰てきめんだと罵った」とされ、多少の漁獲を得てからは「彼らは翁の事業の独占を阻止せんとして、悪辣なる計画をなし」たと記している。その表現が決定的なものになるのは、1928年(昭和3年)の国定教科書『農村用 高等小学読本』と思われる。そこには高瀬の本と同様な表現があった。「人のため世のため」(『青年修身公民書 普通科用』下巻、1941年(昭和16年))などでも同様な話が語られた。佐々木千之『十和田湖の開発者和井内貞行』(三省堂、1942年、昭和17年)では会話形式を多用した物語になっているが、この書の特徴は後の1967年(昭和42年)のポプラ社の世界伝記全集シリーズ26に取り上げられ、世代を越えて影響を及ぼした。その他多数の書籍があるが、戦後ではそれが映画となって演出・表現された。『われ幻の魚を見たり』(1950年、昭和25年、大映制作、大河内傳次郎主演)では「ザイギ、ザイギ、六根清浄、南無十和田青龍大権現…」と文言を唱え参詣道を行進する修験道の人々の映像の後に、人々は禁忌を犯した和井内家に罵声を浴びせ、家に法螺貝を鳴らしながら投石する映像が流された。そのため、石が頭に当たり和井内貞行は流血している。この映画では青龍権現の信者たちは暴力を用いて和井内貞行の妨害をしようとする敵役として登場した。このように、信仰が十分に組織化されていない状態で、近世以降の十和田信仰が迷信であるという評価が広がることで、十和田参拝が徐々に確認されていかなくなっていったのではないかと推測される。
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