十和田山青龍権現信仰とは? わかりやすく解説

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十和田山青龍権現信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:37 UTC 版)

三湖伝説」の記事における「十和田山青龍権現信仰」の解説

十和田湖かつては信仰の湖であり、名の知れた霊地であった南部藩八戸藩ではこれを十和田山呼び、湖中の十和田山青龍権現がその信仰の対象であった。それは、僧侶山岳修行の場で民間信仰登山聖地巡礼の場であり、江戸時代は「額田熊野山十湾寺」を称する神仏習合寺院があって、十和田青龍権現(南祖坊)を本地仏として安置する仏堂十和田御堂(みどう)」が建っていた。この堂は神仏分離に際して神社になり、今は十和田神社として、祭神ヤマトタケルになっている十和田神社の右奥、岩山を登った先の台地神泉苑)は、南祖坊が入定して青龍権現となったと伝わる中湖と、「カミ」が宿る御倉半島の「御室奥の院)」をのぞむ神聖な場所であり、台地降りた中湖水際には、参拝者占い祈り散供(さんぐ)打ちを行う「占場(オサゴ場)」があった。 宝暦の頃、南部藩の社堂を記載した御領分社堂』では「十和田青龍権現」として、大同2年807年)に南蔵坊という僧が、八郎太郎追い出して青龍大権現として小社祀られていると記載されている。青森市油川熊野神社にある1559年永禄2年)の棟札に「熊野山十二所権現勧請於十彎寺」とある「十彎寺」はこの社の前身思われ少なくとも16世紀にはこの社の歴史遡ることができ、同時に熊野修験が関係を持つことを示している。 1727年享保12年)の『津軽一統志』では「津軽糠部の境糠壇の嶽に湖水有、十灣(とわだ)の沼と云ふ也、地神五代より始る也、數ヶ年至って大同二年斗賀靈驗堂の宗徒南蔵坊と云法師八龍追出し十灣の沼に入る。今天十五年まで及八百餘歳也」とある。『邦内郷村志』(明和寛政年間、1764-1801年)には「相伝フ。往古永福寺塔頭ニ南祖坊ナルモノアリ」として同じ話を簡略に説いている。『奥々風土記』(明治3-4年?)にもほぼ同じ記述がある。『吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では、南祖は糠部生まれ幼名糠部丸と呼び永福寺の僧とも額田熊野滝寺の僧ともある。菅江真澄の『十曲湖』(文化4年1807年)では、永福寺の僧とも三戸郡科町龍現寺(科は斗賀の、龍現寺は霊現堂の誤りであろう)のほとりにいた大満坊という修験南蔵坊と名を改めたとしている。鹿角では、安達太良山の麓の出身という異説もあると説いている。 南部藩では南祖坊が実在法印さまとして、上下信仰集めていた。『祐清私記』では「南部利直寝ている姿を見ると、蛇身見えた」という話の後に「南部利直夢に南祖坊が現れ私は蛇身免れるために貴公生まれ変わった告げる。利直がこのことを次衆に告げると、これを真実考える者が多かった。利直が寛永年間江戸で没したが、その時国元東禅寺大英和尚江戸金地院が、それぞれ双方夢の話を全く知らなく、相談したわけでもないのに、同じく南宗院殿の号を撰んだ。利直が南祖坊の生まれ変わりであることはこれによっても明らかである。利直の葬儀三戸行われた時、空がにわかにかき曇って大雨した」と書いている。。 南部藩においては、三湖物語一方の雄である八郎太郎敵役とどまっていて、物語主役を南祖坊に譲っている。南祖坊の物語は、奥羽地方盲人たちによって琵琶三味線などを伴奏として、いわゆる奥浄瑠璃などで神仏社寺縁起説いた本地物一つとして江戸時代語られていた。天明(1781-1789年)の頃に、盛岡本町にいた須磨都(すまいち)という座頭十和田本地語り美声で名を知られていたという。奥浄瑠璃のほかに、南部山伏修験の徒がこれらの話を人々語って聞かせていたのではないか考えられる十和田本地記録南部地方数多く存在していたが、現在知られている十和田本地を『の神―信仰伝説』では物語の形から3つ分類している。第一類は『十和田山本地由来』や『十和田由来記』、『十和田山由来記』『十和田山本地由来記』、『十和田山本地』、『十和田本地』、『十和田山本地記録』、『十和田山本地記録』、『十曲潟本地記録』、『十和田山青龍大権現』などで、第二類は『十和田記』や『十和田縁起』、『十和田由来記』、『十和田本地』、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』、『奥州十和田山正一位大権現御本地』、『十和田御縁起』などで、第三類は『十和田山神教記』、『十和田山神教記』、『十和田神教記実秘録』などである。これらは筆写年代がはっきりと分かっている最も古いものは、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』の1801年寛政16年)である。 十和田本地記録における各書記述違い書名十和田山由来記』(第一類)『十和田記』(第二類)『十和田山神教記』(第三類)筆者年代不明 文政12年1829年万延元年1860年書出年代貞和年間(1345-1350年) 天長元年824年)頃 正延(?)元年 南祖坊の名前(幼名南宗坊(熊之進) 南祖坊(善正) 南祖法師(南祖丸) 南祖坊の出生地七崎村 斗賀 斗賀村 南祖坊の父戸渡五郎左衛門 善学 藤原宗善 母の祈願所熊野大権現 斗賀観音堂 再現観音 母の懐妊の奇端胎内法華経の入る夢 夢白蛇呑む 夢に白髪老人が金の扇子授ける 南祖坊の師匠永福寺月躰法印 永福寺法院 永福寺住主 恋愛と結婚お豊婚約 豊姫、玉靏、八郎の妻の浅野お福 南祖坊の恋敵伊東勝弥 大領 父の家臣篠崎八郎左衛門その子八刀 斗賀別当藤原式部 出家原因童子現れ出家を促す 母の遺言 二人の女性愛し困って 南祖坊の修行場紀伊熊野三所大権現 紀伊熊野三所大権現 紀伊熊野三所大権現 熊野権現からの使者虚空蔵化身水精竜王にのる明星王子 天童白髪老人 南祖坊の修行全国行脚し法力で人を救う 全国行脚し法力で人を救う 全国行脚し法力で人を救う 南祖坊の依存経典法華経 法華経 法華経 弥勒出生一応の目的 修行の全目的 一応の目的 南祖坊の入定十和田湖龍神となって 十和田湖龍神となって 十和田湖龍神となって 八郎太郎の名前八の太郎 八郎太郎 八郎 八郎太郎出生地八戸十日市 鹿角草木村 斗賀付近 八郎太郎父母父は八太郎沼の大蛇、母は十日市お藤 父は草木村 不明 八郎太郎変身岩魚食べて蛇身となる 岩魚食べて蛇身となる 妻の浅野奪った南祖坊を恨んで蛇身となる 戦いの様子細部渡って記述されている 簡単に記述されており、法華経功徳によって敗れる 南祖坊の捨身行悔い改める 八郎太郎終着記述されていない 八郎潟行き着くまでの物語いくつも記述されている 八郎潟棲家としたと示されるのみ 三湖伝説第一類は、奥浄瑠璃として伝搬されたものと考えられる中央からの移入され多く奥浄瑠璃物語とは明らかに異質で、在地的な伝承を基にして浄瑠璃的な粧い凝らされたものと考えられる三湖伝説第二類縁起では八郎太郎先祖秋田県大館市比内町独鈷大日堂鹿角市小豆沢大日堂別当であるとしている。『十和田由来記』では、八郎太郎の父の出身地赤子とされ「とっこ」とルビがふられている。『十和田記』ではそれが赤谷とされている。ルビはないものの北沼が近くにあると記されていることから、それが大館市独鈷大日堂であることが分かる十和田信仰宗派熊野権現天台宗であるが、秋田藩内にある独鈷大日堂宗派は現在真言宗である。中世独鈷周辺支配していた比内浅利氏天台宗信仰していた。1441年(喜吉元年)の熊野御師米良実報院の『願文』には「あさりの徳子独鈷)之入道阿弥(ただあみ)、子息隆慶合力善阿弥先達遊里由利)住公良春」とある。しかし、『浅利軍記』では独鈷大日堂真言宗であると記録されている。そして、江戸時代秋田藩政策真言宗であった佐竹氏水戸時代第15代当主佐竹義舜長子である永義は庶腹の子であったので僧籍入れられた。それを嫌った永義は父義舜の立腹叱責かえりみず今宮神社において俗籍にかえり元服し今宮姓を名のる。のち永義は天台宗聖護院につき山伏修験となり、水戸藩内の山伏に対して役銀をとり、山伏犯罪成敗する治外法権支配権得た。永義の長子光義跡目相続をして、常州寺山城主同時に山伏修験頭領になった光義大和大峯山でも修行をして、遂に関東地方全域頭領の職につき常院と名乗った1602年佐竹義宣秋田転封されると光義62歳で今宮一族連れて随行し平鹿郡増田住み、まもなく角館移り63歳没した佐竹氏秋田転封されると天台宗聖護院は「羽州遠国であるから関東山伏支配不能である」と一方的に関東一円山伏支配権取り上げた佐竹氏聖護院断交して真言宗についた。 『角川日本地名大辞典 2 青森県』の「十和田神社」の項目では三湖伝説は「天台宗修験者真言宗修験者宗門上の争いがあったことが、南蔵坊と八郎太郎争い仮託されて伝承されたものであろう」としている。高瀬博は「これは羽黒山伏熊野山伏勢力争いで、熊野系の南祖ノ坊の勝利みるべきのである」としている。井上隆明は、南祖坊は熊野修験三戸郡名川霊験堂、同郡五戸町永福寺からして天台宗。湖争いで南祖坊の勝利は、真言文化圏敗北を表すだろうと記している。ただ、物語多くで南祖坊の師匠所属する寺院後継である盛岡永福寺は現在真言宗である。 独鈷大日堂小豆沢大日堂だんぶり長者伝説通じて縁が深い岩手県二戸市浄法寺町天台寺915年の三湖物語との関連語られている十和田火山大噴火によって成立した可能性語られている。また、十和田火山大噴火原因となった米代川火山灰による白い濁りは、民話ではそのだんぶり長者伝説結び付けられている。 十和田湖休屋置かれた十湾寺を南部藩はここで参拝しない熊野山伏には行者資格与えず、外からの勢力対し山伏保護し十和田湖周辺には他勢力寄せ付けなかった。そのため、出羽津軽?)の山伏ははるか御鼻部山から参拝して戻るしかなかった。また、明治時代初期初め休屋開拓した栗山新兵衛目的は、南部藩犬猿の仲であった津軽藩対す国境警備のための屯田開発最大理由であった。十湾寺への参拝者江戸時代には南部藩領全域からが主になっていたが、他に八戸藩からと、遠く仙台藩奥州市)からの参拝者もいた。しかし、津軽藩秋田藩からの参拝者記録されていない

※この「十和田山青龍権現信仰」の解説は、「三湖伝説」の解説の一部です。
「十和田山青龍権現信仰」を含む「三湖伝説」の記事については、「三湖伝説」の概要を参照ください。

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