十和田山青龍権現信仰
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十和田湖はかつては信仰の湖であり、名の知れた霊地であった。南部藩や八戸藩ではこれを十和田山と呼び、湖中の十和田山青龍権現がその信仰の対象であった。それは、僧侶や山岳修行の場で民間の信仰登山、聖地巡礼の場であり、江戸時代は「額田嶽熊野山十湾寺」を称する神仏習合の寺院があって、十和田青龍権現(南祖坊)を本地仏として安置する仏堂「十和田御堂(みどう)」が建っていた。この堂は神仏分離に際して神社になり、今は十和田神社として、祭神はヤマトタケルになっている。十和田神社の右奥、岩山を登った先の台地(神泉苑)は、南祖坊が入定して青龍権現となったと伝わる中湖と、「カミ」が宿る御倉半島の「御室(奥の院)」をのぞむ神聖な場所であり、台地を降りた中湖の水際には、参拝者が占いと祈り、散供(さんぐ)打ちを行う「占場(オサゴ場)」があった。 宝暦の頃、南部藩の社堂を記載した『御領分社堂』では「十和田青龍権現」として、大同2年(807年)に南蔵坊という僧が、八郎太郎を追い出して、青龍大権現として小社に祀られていると記載されている。青森市油川の熊野神社にある1559年(永禄2年)の棟札に「熊野山十二所権現勧請於十彎寺」とある「十彎寺」はこの社の前身と思われ、少なくとも16世紀にはこの社の歴史が遡ることができ、同時に熊野修験が関係を持つことを示している。 1727年(享保12年)の『津軽一統志』では「津軽と糠部の境糠壇の嶽に湖水有、十灣(とわだ)の沼と云ふ也、地神五代より始る也、數ヶ年に至って大同二年斗賀靈驗堂の宗徒南蔵坊と云法師、八龍を追出し十灣の沼に入る。今天文十五年まで及八百餘歳也」とある。『邦内郷村志』(明和寛政年間、1764-1801年)には「相伝フ。往古永福寺ノ塔頭ニ南祖坊ナルモノアリ」として同じ話を簡略に説いている。『奥々風土記』(明治3-4年?)にもほぼ同じ記述がある。『吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では、南祖は糠部の生まれで幼名を糠部丸と呼び、永福寺の僧とも額田岳熊野十滝寺の僧ともある。菅江真澄の『十曲湖』(文化4年、1807年)では、永福寺の僧とも三戸郡科町龍現寺(科は斗賀の、龍現寺は霊現堂の誤りであろう)のほとりにいた大満坊という修験が南蔵坊と名を改めたとしている。鹿角では、安達太良山の麓の出身という異説もあると説いている。 南部藩では南祖坊が実在の法印さまとして、上下の信仰を集めていた。『祐清私記』では「南部利直が寝ている姿を見ると、蛇身に見えた」という話の後に「南部利直の夢に南祖坊が現れ私は蛇身を免れるために貴公に生まれ変わったと告げる。利直がこのことを次衆に告げると、これを真実と考える者が多かった。利直が寛永年間に江戸で没したが、その時国元の東禅寺の大英和尚と江戸の金地院が、それぞれ双方夢の話を全く知らなく、相談したわけでもないのに、同じく南宗院殿の号を撰んだ。利直が南祖坊の生まれ変わりであることはこれによっても明らかである。利直の葬儀が三戸で行われた時、空がにわかにかき曇って大雨電雷した」と書いている。。 南部藩においては、三湖物語の一方の雄である八郎太郎は敵役にとどまっていて、物語の主役を南祖坊に譲っている。南祖坊の物語は、奥羽地方の盲人たちによって琵琶や三味線などを伴奏として、いわゆる奥浄瑠璃などで神仏・社寺の縁起を説いた本地物の一つとして江戸時代に語られていた。天明(1781-1789年)の頃に、盛岡の本町にいた須磨都(すまいち)という座頭は十和田の本地を語り美声で名を知られていたという。奥浄瑠璃のほかに、南部の山伏や修験の徒がこれらの話を人々に語って聞かせていたのではないかと考えられる。 十和田の本地の記録は南部地方に数多く存在していたが、現在知られている十和田本地を『雨の神―信仰と伝説』では物語の形から3つに分類している。第一類は『十和田山本地由来』や『十和田由来記』、『十和田山由来記』『十和田山本地由来記』、『十和田山本地』、『十和田本地』、『十和田山本地記録』、『十和田山本地記録』、『十曲潟本地記録』、『十和田山青龍大権現』などで、第二類は『十和田記』や『十和田縁起』、『十和田由来記』、『十和田本地』、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』、『奥州十和田山正一位大権現御本地』、『十和田御縁起』などで、第三類は『十和田山神教記』、『十和田山神教記』、『十和田神教記実秘録』などである。これらは筆写年代がはっきりと分かっている最も古いものは、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』の1801年(寛政16年)である。 十和田の本地の記録における各書の記述の違い書名『十和田山由来記』(第一類)『十和田記』(第二類)『十和田山神教記』(第三類)筆者年代不明 文政12年(1829年) 万延元年(1860年) 書出年代貞和年間(1345-1350年) 天長元年(824年)頃 正延(?)元年 南祖坊の名前(幼名)南宗坊(熊之進) 南祖坊(善正) 南祖法師(南祖丸) 南祖坊の出生地七崎村 斗賀村 斗賀村 南祖坊の父戸渡五郎左衛門 善学 藤原宗善 母の祈願所熊野大権現 斗賀の観音堂 再現堂観音 母の懐妊の奇端胎内に法華経の入る夢 夢に白蛇を呑む 夢に白髪の老人が金の扇子を授ける 南祖坊の師匠永福寺月躰法印 永福寺月法院 永福寺住主 恋愛と結婚お豊と婚約 豊姫、玉靏、八郎の妻の浅野、お福 南祖坊の恋敵伊東勝弥 大領 父の家臣篠崎八郎左衛門とその子八刀 斗賀の別当の藤原式部 出家の原因童子が現れ出家を促す 母の遺言 二人の女性を愛し、困って 南祖坊の修行場紀伊熊野三所大権現 紀伊熊野三所大権現 紀伊熊野三所大権現 熊野権現からの使者虚空蔵の化身で水精竜王にのる明星王子 天童子 白髪の老人 南祖坊の修行全国行脚し法力で人を救う 全国行脚し法力で人を救う 全国行脚し法力で人を救う 南祖坊の依存経典法華経 法華経 法華経 弥勒の出生一応の目的 修行の全目的 一応の目的 南祖坊の入定十和田湖に龍神となって 十和田湖に龍神となって 十和田湖に龍神となって 八郎太郎の名前八の太郎 八郎太郎 八郎 八郎太郎の出生地八戸の十日市 鹿角の草木村 斗賀付近 八郎太郎の父母父は八太郎沼の大蛇、母は十日市のお藤 父は草木村急苗 不明 八郎太郎の変身岩魚を食べて蛇身となる 岩魚を食べて蛇身となる 妻の浅野を奪った南祖坊を恨んで蛇身となる 戦いの様子細部に渡って記述されている 簡単に記述されており、法華経の功徳によって敗れる 南祖坊の捨身行で悔い改める 八郎太郎の終着地記述されていない 八郎潟に行き着くまでの物語がいくつも記述されている 八郎潟を棲家としたと示されるのみ 三湖伝説第一類は、奥浄瑠璃として伝搬されたものと考えられる。中央からの移入された多くの奥浄瑠璃の物語とは明らかに異質で、在地的な伝承を基にして浄瑠璃的な粧いを凝らされたものと考えられる。 三湖伝説第二類の縁起では八郎太郎の先祖が秋田県大館市比内町独鈷の大日堂や鹿角市小豆沢の大日堂の別当であるとしている。『十和田由来記』では、八郎太郎の父の出身地は赤子とされ「とっこ」とルビがふられている。『十和田記』ではそれが赤谷とされている。ルビはないものの北沼が近くにあると記されていることから、それが大館市独鈷の大日堂であることが分かる。十和田信仰の宗派は熊野権現の天台宗であるが、秋田藩内にある独鈷の大日堂の宗派は現在真言宗である。中世、独鈷城周辺を支配していた比内浅利氏は天台宗を信仰していた。1441年(喜吉元年)の熊野の御師米良実報院の『願文』には「あさりの徳子(独鈷)之入道但阿弥(ただあみ)、子息隆慶、合力善阿弥、先達は遊里(由利)住公良春」とある。しかし、『浅利軍記』では独鈷の大日堂は真言宗であると記録されている。そして、江戸時代の秋田藩の政策は真言宗派であった。佐竹氏の水戸時代の第15代当主佐竹義舜の長子である永義は庶腹の子であったので僧籍に入れられた。それを嫌った永義は父義舜の立腹叱責をかえりみず今宮神社において俗籍にかえり元服し今宮姓を名のる。のち永義は天台宗の聖護院につき山伏修験となり、水戸藩内の山伏に対して役銀をとり、山伏の犯罪を成敗する治外法権的支配権を得た。永義の長子の光義は跡目相続をして、常州寺山の城主と同時に山伏修験の頭領になった。光義は大和の大峯山でも修行をして、遂には関東地方全域の頭領の職につき常蓮院と名乗った。1602年佐竹義宣が秋田に転封されると光義は62歳で今宮一族を連れて随行し、平鹿郡増田に住み、まもなく角館に移り63歳で没した。佐竹氏が秋田に転封されると天台宗の聖護院は「羽州は遠国であるから関東の山伏支配は不能である」と一方的に関東一円の山伏支配権を取り上げた。佐竹氏は聖護院と断交して真言宗についた。 『角川日本地名大辞典 2 青森県』の「十和田神社」の項目では三湖伝説は「天台宗修験者と真言宗修験者の宗門上の争いがあったことが、南蔵坊と八郎太郎の争いに仮託されて伝承されたものであろう」としている。高瀬博は「これは羽黒系山伏と熊野系山伏の勢力争いで、熊野系の南祖ノ坊の勝利とみるべきものである」としている。井上隆明は、南祖坊は熊野修験、三戸郡名川霊験堂、同郡五戸町永福寺からして天台宗。湖争いで南祖坊の勝利は、真言文化圏の敗北を表すだろうと記している。ただ、物語の多くで南祖坊の師匠が所属する寺院の後継である盛岡永福寺は現在真言宗である。 独鈷大日堂や小豆沢大日堂とだんぶり長者伝説と通じて縁が深い岩手県二戸市浄法寺町の天台寺は915年の三湖物語との関連が語られている十和田火山の大噴火によって成立した可能性が語られている。また、十和田火山の大噴火が原因となった米代川の火山灰による白い濁りは、民話ではそのだんぶり長者伝説と結び付けられている。 十和田湖休屋に置かれた十湾寺を南部藩はここで参拝しない熊野派山伏には行者資格を与えず、外からの勢力に対し山伏を保護し、十和田湖周辺には他勢力を寄せ付けなかった。そのため、出羽(津軽?)の山伏ははるか御鼻部山から参拝して戻るしかなかった。また、明治時代初期に初めて休屋を開拓した栗山新兵衛の目的は、南部藩と犬猿の仲であった津軽藩に対する国境警備のための屯田開発が最大の理由であった。十湾寺への参拝者は江戸時代には南部藩領の全域からが主になっていたが、他に八戸藩からと、遠く仙台藩(奥州市)からの参拝者もいた。しかし、津軽藩や秋田藩からの参拝者は記録されていない。
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