第二次世界大戦以前の艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:44 UTC 版)
「ペトロパブロフスク (戦艦・2代)」の記事における「第二次世界大戦以前の艦歴」の解説
1914年(大正3年)、ペトロパブロフスクはロシア帝国海軍における最初の弩級戦艦、ガングート級戦艦の2番艦として他の同型艦3隻と共に竣工した。姉妹艦ガングート (Гангут) を1番艦とせず、本艦をネームシップとしてマラート級戦艦と表記する二次資料がある。外見的には同時代のイタリア戦艦ダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) に似ているが、オーストリアのテゲトフ級戦艦 (Tegetthoff-Klasse) を基にしたドイツ式設計の影響が大きいという説もある。最初は第一次世界大戦における対独戦に参加していたが、ロシア革命によるソヴィエト政府の対ドイツ単独講和により、かつての同盟国である連合国側に攻撃されてしまう。1919年(大正8年)8月18日、クロンシュタット軍港でイギリスの魚雷艇(CMB31,88)の雷撃により浸水着底する。その後、本艦は浮揚修理されて復帰した。 1921年(大正10年)3月、内戦の大勢が決したにもかかわらず市民生活の改善が行われないことに対し、ペトロパブロフスクの艦上で開かれた乗組員集会において革命の民主化とボリシェヴィキの打倒を求めるスローガンが採択され、同戦艦の乗員ステパン・ペトリチェンコ Петриченко(操舵係将校)en:Stepan Petrichenko)、パトローチェフ(主任電気技術兵)の2名が臨時革命委員会委員となった。事態は緊迫化して行き水兵達はクロンシュタットの反乱を起こすが、ミハイル・トゥハチェフスキーがこの反乱を鎮圧した。 赤軍は4,000人以上の戦傷者を出し、反乱側は死傷者不明ながら「共産主義黒書」によれば鎮圧後2,103人が死刑の判決を受け、6,459人が投獄され、8,000人の反乱軍兵士がフィンランドへ亡命するという恐ろしい結果に終わった。なお、この反乱鎮圧に主要な役割を果たしたトハチェフスキー、グリゴリー・ジノヴィエフペトログラード・ソビエト議長、レフ・トロツキー陸海軍人民委員、ラシェヴィチ(英語版)革命軍事委員会委員、ドィベンコ(ペトログラード地区守備隊指揮官)、ヴィトフト・プトナ(ロンドン駐在武官)、ゲオルギー・ピャタコフといった人々は後に大粛清により非業の死を遂げた。また、フィンランドへ亡命した反乱兵は、後に冬戦争でソ連がフィンランド国境地帯を占領した際に強制収容所へ連行されるという厳しい報復の対象となった。 関係者に対する厳しい処分の一方、艦自体は貴重な弩級戦艦として整備改装が行われた。結果としてソヴィエト政権時代に新たな戦艦を国産して長期運用することは出来なかったこと、列強各国の主力艦には見劣りするが、バルト海や黒海といった限定的な海域においては有力艦でありつづけたため、本級は極めて重要な存在であった。 1921年3月31日、艦名をペトロパブロフスクからフランスの革命家ジャン=ポール・マラー (Jean-Paul Marat) に因んで「マラート」(Марат) と改名、他の同型艦もガングート→十月革命(オクチャブルスカヤ・レヴォルチャ)、セバストーポリ→パリ革命政府(パリスカヤ・コンムナ)、ポルタワ(英語版)→フルンゼ(ロシア語版)(ミハイル・フルンゼ第2代ソ連陸海軍人民委員(国防相))と革命色の強いものに改名された。 1928年(昭和3年)から1931年(昭和6年)に、2年半かけて近代化改装工事が行われる。これにより艦橋構造物の大型化と第一煙突の屈曲・誘導化で艦型が一新された。 1933年(昭和8年)8月7日、第2砲塔の爆発事故により68名の犠牲者発生。 1937年(昭和12年)5月20日、イギリスのジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した。
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