第二次世界大戦中の香港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 05:55 UTC 版)
「台湾香港関係」の記事における「第二次世界大戦中の香港」の解説
1941年1月、日本軍が中国本土からイギリス領香港に向けて進撃してくると、英首相チャーチルは自国の植民地である香港の防衛に消極的で、防衛軍を「象徴的な規模」に縮小すべきだと発言した。1941年12月、防衛力の弱い植民地に日本軍が快勝すると、日本による香港の占領が始まり、香港と台湾は共に大日本帝国の属領となった。 同1941年12月、アメリカは大西洋憲章を発行し、チャーチルに脱植民地化に同意させた数ヶ月後に第二次世界大戦に突入した。香港の保護が弱く、イギリスが九カ国条約、大西洋憲章、連合国共同宣言に合意したにもかかわらず、イギリスは脱植民地化を拒否し、香港を中華民国に引き渡すことを拒否した。1942年、中華民国は不平等条約を破棄し、イギリスとの間で、より公平な条約の締結に向けた交渉を開始した。蒋介石は香港の問題を両国の議題に加えようとし、九龍の租界を他の外国の租界と一緒に中華民国に返還すべきだと提案した。これはチャーチルによって断固拒否され、九龍の利権が不平等条約に含まれないことを書面で同意しなければ条約への署名を拒否すると主張したため、中華民国は九龍の利権を議題から外さざるを得なくなった。1943年には中国における治外法権の返還に関する中英条約に調印し、中華民国は英国に正式な書簡を書き、後日香港問題を提起する権利を留保した。
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