第二次世界大戦中後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:52 UTC 版)
日本海軍の連合艦隊司令部が設置されていた旗艦は、太平洋戦争開戦を挟む1938年12月から1942年2月までが戦艦「長門」、1942年2月から1943年2月まで戦艦「大和」、1943年2月から1944年5月まで戦艦「武蔵」だった。太平洋戦争では、艦隊決戦で連合艦隊司令部が艦隊の先頭に立つような事態は起こらず、後方で全体指揮を取る状態であり日本海軍最強の長門型戦艦、大和型戦艦をむざむざ後方で遊ばせる事態に陥った。 そこで、後部に紫雲水上偵察機(水偵)用の巨大な格納庫ならび大型射出機を装備していた軽巡洋艦「大淀」をアメリカ海軍空母艦載機の空襲で受けた損傷を修理するのに合わせて改造、飛行機搭載設備を縮小して旗艦設備と通信能力を充実させ、1944年5月豊田副武大将が連合艦隊司令長官に就任と共に連合艦隊旗艦とされた。1944年6月のマリアナ沖海戦では豊田司令長官は木更津沖に碇泊中の「大淀」から全軍の指揮を執った。 しかしこの処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を取るのが望ましいとされて、同年9月末に日吉台の慶應義塾大学構内(現:日吉キャンパス、参照:日吉寮)の地下防空壕に移ってしまい、連合艦隊旗艦は消滅した。 また、各艦隊においても、従来のように旗艦が艦隊の先頭にあって率いるよりも、通信機によって全体を指揮するものとされ、個艦の戦闘能力より指揮通信能力がより重要視された。レイテ沖海戦で栗田艦隊の旗艦となった重巡洋艦「愛宕」が代表例。しかしながら栗田のこの判断については、旗艦・司令官が先頭に立つ義務を怠ったという批判もあり、従来の旗艦を先頭艦とする意見も根強いものがあった。 一方でアメリカ海軍は通信・指揮能力に優れた艦を旗艦とする方針が確定しており、揚陸指揮艦の建造就役も行われている。未建造に終わるもののモンタナ級戦艦5隻について、3番艦「メイン」のみに艦隊旗艦設備を設ける(言葉を換えると、他の4艦は最大最強の戦艦でありながら艦隊旗艦となる事が無い)予定であった。
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