第二次世界大戦中の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 06:39 UTC 版)
インドと日本はインドの独立運動の間も深く結びついていた。同盟は日本の牟田口廉也中将と東條英機陸軍大臣、イギリスからのインドの独立運動に献身していた闘争運動である自由インド仮政府とインド国民軍を率いるスバス・チャンドラ・ボースとの会談から生まれた。インド国民軍は、主に日本軍がシンガポール陥落時に捕えた英印軍の捕虜と日本の戦争に加わることを決意した東南アジアのインド人から構成されていた。ボースはインド国民軍がインドでのあらゆる作戦に参加することを切望し、牟田口など数人の日本人が予想していたように、英領インドの崩壊と独立運動の勝利を確信していた。日本にとって彼らの西側の国境線がより友好的な政府によって管理されるという考えは魅力的なものだった。日本のアジア膨張はアジア人によるアジアの政府を支援する努力の一環であり、西洋の植民地主義と対決するものであるというアイデアもまた日本と一致していた。 日本政府はインドの独立闘争の間もインド国民軍とインド独立連盟に対する広範囲にわたる支援を拡大した。インドと日本はインドの独立戦争に対する資金援助の協定を結ぶことで合意した。 日本がインドに対し侵略の意図があったのかどうかは定かでない。日本の政府にとって彼らの西側の国境線がより友好的な政府(つまりイギリスではなくインド)によって管理されるというのは魅力的なものだった。 日本軍は多くの戦闘においてインド国民軍とともに戦った。その中で最も著名なものはマニプルにおけるウ号作戦である。戦いはインパールとコヒマにおいて始まり、日本とその同盟国はそれらを占領したが、その後奪い返された。1943年、インドと日本は他のアジアの国々とともに大東亜会議に参加し、人種差別の撤廃に向けて努力していくことを宣言した。イギリスの統治下にあったアンダマン諸島とニコバル諸島は日本によってインドへ返還された。1944年、スバス・チャンドラ・ボースは将来のパイロットとして訓練するため、インドの青年を日本の陸軍士官学校または陸軍航空士官学校へと送った。
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