第二次世界大戦中の艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 02:20 UTC 版)
「ヘイゼルウッド (DD-531)」の記事における「第二次世界大戦中の艦歴」の解説
ヘイゼルウッドは1942年4月11日、カリフォルニア州サンフランシスコのベスレヘム造船にて起工された。1942年11月20日に進水、1943年6月18日に就役し、ハンター・ウッド・ジュニアが指揮を執った。 試運転後、ヘイゼルウッドは9月5日に西海岸を出発した。9月9日に真珠湾に到着し、航空母艦レキシントンのチャールズ・A・パウナル少将の下空母戦闘群に加わり、ギルバート諸島のタラワに対して航空攻撃を開始した。ヘイゼルウッドは次に、10月5日と6日のウェーク島に対する攻撃のため第2艦隊(6隻の空母、7隻の巡洋艦、24隻の駆逐艦)に加わわった。 10月11日に真珠湾に戻ると、駆逐艦は日本軍に対する大規模上陸作戦に備えるたの集中訓練に参加した。11月5日にはニューヘブリディーズ諸島のハバナ港でレイモンド・スプルーアンス提督の下第53任務部隊に加わわった。11月13日に出航し、ヘイゼルウッドは11月20日にギルバート諸島沖航空戦に参加した。太平洋を横断する艦隊の航行における最も激しい闘争の1つであり、ヘイゼルウッドは対潜哨戒と対空護衛に従事した。ヘイゼルウッドは1943年12月7日に真珠湾に戻り、次の作戦の準備に就いた。 太平洋戦争が勢いを増す中、ヘイゼルウッドは1944年1月22日にマーシャル諸島のクェゼリン環礁及びマジュロへの侵攻のため、スプルーアンス提督の下第52任務部隊に配属され、真珠湾から出撃した。1月31日に部隊が上陸した後、ヘイゼルウッドは主要な航空護衛船としてクェゼリン環礁に停泊し、対潜水艦哨戒を行った。その後2月15日にクェゼリンを出航し、ソロモン諸島とマーシャル諸島を経由して数か月の哨戒及び護衛任務を遂行した。更に、ウンガラブ港とニューアイルランド島の日本施設に対して砲撃を行った。 ヘイゼルウッドは次にパラオ攻撃に参加した。9月15日、第1海兵師団がパラオ諸島のペリリュー島に上陸した際には日本軍の反撃を抑止するため海岸の陣地を銃撃した。ヘイゼルウッドはペリリュー島海域の哨戒を続け、10月3日にマヌス島のゼーアドラー湾に向けて出航、フィリピン解放のためトーマス・C・キンケイド提督の艦隊に加わった。10月20日、海軍の上陸援護攻撃の下レイテ島に部隊が上陸した際、ヘイゼルウッドは日本軍の激しい空襲を受けた。 翌週、日本軍がフィリピンの支配を確保ために最後の反撃に出たため、絶え間ない空襲と広範囲にわたる艦隊移動が繰り返された。レイテ沖海戦として歴史的に知られているこの海戦では、日本海軍は壊滅的な損害を受けた。日本海軍は3隻の戦艦、4隻の空母、6隻の重巡洋艦、4隻の軽巡洋艦、9隻の駆逐艦、および多数の航空機を失った。ヘイゼルウッドは、少なくとも2機の神風特攻隊を撃墜したと主張した。 ヘイゼルウッドは12月にレイテ沖の哨戒及びウルシー環礁での砲撃演習に従事した。その後、マケイン中将の空母打撃群に加わり、12月30日に出航した。空母は琉球諸島、台湾、沖縄、そして1945年1月3日から7日まで中国沿岸の日本の陣地に対して激しい空襲を行った。これらの攻撃は1月9日にリンガエン湾に上陸したフィリピンから日本軍の注意をそらした。インドシナでの日本の陣地へのさらなる攻撃の後、ヘイゼルウッドは1月26日にウルシー環礁に戻った。 ヘイゼルウッドは2月11日、別の任務部隊に加わり、2月16日と17日に日本列島に対して空襲を行う空母の保護として出撃した。2月19日から始まった硫黄島への上陸を支援するため、艦隊は迅速に進路を変え南に向かって進んだ。神風特攻隊、戦闘機、急降下爆撃機からの絶え間ない攻撃を受ける中、2月25日の夜に2隻の小さな敵の貨物船を機銃により沈めた。 ヘイゼルウッドは3月1日にウルシー環礁に戻った後、沖縄攻略のため再度任務部隊に加わり、3月14日に出撃した。4月1日の攻撃後、ヘイゼルウッドは沖縄沖で護衛及び哨戒を行った。4月29日、ヘイゼルウッドが護衛をしていた空母打撃群は、低い雲間から飛び出した神風特攻隊の攻撃を受けた。 ヘイゼルウッドは全ての対空砲により応戦し、2機の零戦を回避するように操舵したが、ヘイゼルウッドの対空砲火を受けながら、零戦は船体上部を通り左舷側の貨物に衝突、艦橋にて爆発した。マストが倒れ、前方の主砲が機能を失い、燃えるガソリンが甲板と隔壁に溢れた。艦長を含む10名の将校と67名が死亡し、36名が行方不明となった。工務士官である中尉が指揮を執り、ダメージコントロール及び負傷者の救助を指示した。ヘイゼルウッドは曳航され、途中から自力で航行し5月5日に応急修理のためウルシー環礁に到着した。6月14日に真珠湾を経由してメア・アイランド海軍造船所に入り修理を行った。ヘイゼルウッドは1946年1月18日に退役し、カリフォルニア州サンディエゴの太平洋予備艦隊に入った。
※この「第二次世界大戦中の艦歴」の解説は、「ヘイゼルウッド (DD-531)」の解説の一部です。
「第二次世界大戦中の艦歴」を含む「ヘイゼルウッド (DD-531)」の記事については、「ヘイゼルウッド (DD-531)」の概要を参照ください。
第二次世界大戦中の艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:17 UTC 版)
「トーゴ (夜間戦闘機指揮艦)」の記事における「第二次世界大戦中の艦歴」の解説
商船トーゴは、ヴォエルマン・ライン(Woermann Line)向けのアフリカ諸国との貿易に使用する12名分の乗客用船室を持つ貨物船として1938年8月に進水した。第二次世界大戦が勃発して連合国側の港にいたドイツ船が抑留された時、トーゴはフランス領カメルーンのドゥアラにいた。抑留を避けるためにベルギー生まれの船長ウジェーヌ・ルスレ (Eugene Rousselet) は、夜陰に紛れてトーゴをベルギー領コンゴの港ボーマへ脱出させた。10月25日にボーマを出港し、連合国側の海上封鎖を突破したトーゴは、1939年11月23日にハンブルクへ帰港し、そこでドイツ海軍により徴発された。
※この「第二次世界大戦中の艦歴」の解説は、「トーゴ (夜間戦闘機指揮艦)」の解説の一部です。
「第二次世界大戦中の艦歴」を含む「トーゴ (夜間戦闘機指揮艦)」の記事については、「トーゴ (夜間戦闘機指揮艦)」の概要を参照ください。
- 第二次世界大戦中の艦歴のページへのリンク