最初の建設: 1949年 - 1953年
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「ドナウ・黒海運河」の記事における「最初の建設: 1949年 - 1953年」の解説
ドナウ川と黒海の間に運河を建設するという案は、1948年、ルーマニアの指導者、ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジがモスクワのクレムリンを訪問した際に、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンから提案を受けたものだと伝えられる。ゲオルギュ=デジ時代の高官は、運河建設は、裕福な小作農やいわゆる「人民の敵」を排除するための手段として提案され、ソ連からは政権に反対する人々の特定や建設機械の提供に対しての支援が約束されたと述べている。彼はまた、ゲオルギュ=デジは、運河建設がソ連拡大戦略の一環として考えられていると疑っており、スターリンの勧めには納得していなかったとも話している。この提案は後に、1947年から48年にかけて行われたソ連の極秘の調査に基づいており、ボスポラス海峡に近く、岩地のため好条件であったミディア港に潜水艦基地を建設することを狙ったものだったことが判明した。 1949年5月25日、ルーマニア共産党中央委員会の政治局において、ゲオルギュ=デジがドナウ川と黒海を結ぶ運河を建設し、地域の経済的・文化的発展を目指すという報告書を発表した。この建設計画は、ルーマニアの社会主義構築のために重要なものであったと推測され、政治局は工事の準備作業をすぐに開始できるよう承認を得るため、閣僚会議に提出することを勧めている。同日、副議長であったゲオルギュ=デジは、ペテル・グローザが議長を務める閣僚会議に計画を提出し、これは即座に承認された。1949年8月22日に行われたスピーチにおいて、アナ・パウケルは、「我々は、ブルジョワジー抜きで、ブルジョワジーに反対する運河を建設しようとしている」と語り、運河建設を歓迎した。パウケルのこの発言は、運河建設のスローガンとして、すべての建設現場に掲げられた。 1949年10月、政府は、指導者の意向に沿い、建設作業と刑務施設の両方を監督する総司令部を設立した。最初の長官には、もと機械工・トラクター運転手で、トゥルチャ県における共産党第一書記や水産局の局長を務めていたゲオルゲ・ホッシュが任命された。1951年には、マイヤー・グリュンベルクに代わられ、さらに1952年から53年にかけてはミハイ・ポヴスタンチが務めた。短期間で長官が交代した理由として、歴史家のアドリアン・チオロイアヌは、3人とも政府の求める仕事をこなせるほど熟練していなかったことを指摘しており、1952年には司令部は内務省の直接管理下に置かれ、現場においてはセクリターテの直接介入が許されることとなった。 1953年7月18日、プロジェクトは中止された。いくつかの情報筋によると、1952年には早くもスターリンが中心を要求していたとされる。1959年より、それまでの工事で建設されていた施設の一部は、「Mircea Vodă灌漑施設」(後にCarasu灌漑施設に組み込まれる)として利用され、別の場所は、30年後、工事が再開した際に、北支線の一部として用いられた。
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