最初の強襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 04:36 UTC 版)
「ローマ包囲戦 (紀元前508年)」の記事における「最初の強襲」の解説
タルクィニウスはタルクィニイとウェイイを使っての権力奪還に失敗したため、翌紀元前508年にはクルシウム(現在のキウージ)王ラルス・プルセナスの支援を求めた。 当時のクルシウムは強大なエトルリア都市であった。プルセナスはクルシウムの王とされるが、他のエトルリア都市も同盟していた可能性がある。大プリニウスは、プルセナスの墓標には、「クルシウムの王」ではなく「エトルリアの王」と刻まれていると述べている。エトルリアの伝説では、プルセナスは電光を使って街に危険をもたらしたオイタの怪物を退治したとされることから、ウォルシニイ(en)の王であったことも示唆される。さらに、ハリカルナッソスのディオニュシオスとフロルス(en)は、プルセナスはクルシウムの王であり、全エトルリアの王であるとしている。 ローマ元老院はプルセナスの軍が接近してくることを知り、ローマ市民が恐怖のあまり敵軍を招き入れ、タルクィニウスの復位を認めてしまうことを恐れた。差し迫る篭城戦に耐えるために市民の問題を解決して団結を強めようと、元老院はいくつかの策を講じた。例としてはウォルスキ族とクーマエからの穀物輸入、塩の専売制度の導入(塩の値段が高騰していたため)、低所得者の免税、等がある。これらの策は成功し、ローマ市民は団結して敵に向かうことになった。 プルセナスは軍を指揮してローマへの攻撃を開始した。クルシウム軍はローマに通じるテヴェレ川のスブリキウス橋(en)を急襲した。ローマ軍士官の一人であるプブリウス・ホラティウス・コクレス(en)は敵兵がヤニクルムの丘(en)を占領し、そこから下って橋を攻撃してくるの認めた。ローマ軍守備兵はパニックになり武器を捨てて逃走しようとした。しかしホラティウスは、ここで逃げたとしても敵は直ぐにパラティヌスの丘を占領するから無駄だと叫び、ローマ兵を敵に向かわせた。続いて兵士達に、あらゆる手段を使って橋を破壊するように命じた。この間にも敵の矢が降り注ぎ、彼にも命中した。彼は橋の先端で武器を持って立ち止まっていたため、エトルリア兵はその勇気に驚いた。 ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌスとスプリウス・ラルキウス・ルフスもホラティウスに加わった。ヘルミニウスとラルティウスは橋がほぼ破壊された時点で撤退した。 エトルリア兵はしばらく呆然としていた。しかし、恥をすすぐために猛烈な攻撃を開始した。しかしホルティウスは、楯で敵の攻撃を防ぎ、全ての努力を払って自身の位置を確保した。ついには圧倒されそうになったが、その瞬間に橋は破壊された。ホルティウスは叫んだ「父なるテヴェレよ、あなたの水流という武器でこの一兵士を守りたまえ」。続いて川に飛び込み、敵の弓矢が降りそそぐ中、泳いで川を渡った。後にホラティウスの像がコミティウム(en、公共の広場)に作られ、広大な土地が与えられ、また市民も資財を寄贈した。
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